娘じゃなくて私が好きなの!?

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 contents



プロローグ

第一章 母親と少年

第二章 告白と困惑

第三章 日常と変化

第四章 過去と約束

第五章 作戦と混沌

第六章 本音と建前

第七章 女と男

エピローグ

プロローグ


    ♠


 俺おれが綾あや子こさんと初めて出会ったのは、悲劇の最中だった。

「──この子は私が引き取ります」

 凜りんとした声が、黒い服を着た大人達たちの間に響ひびき渡わたる。そこまで大きな声ではなかったけれど、静かな覚かく悟ごを伴ともなうような強い声は、この場の鬱うつ々うつとした空気を切きり裂さくようだった。

 葬そう式しきの後、だった。

 うちの隣となりに住んでいる夫ふう婦ふが──交通事故で亡なくなった。

 二人で一いつ緒しよに、天国に旅立った。

 当時十歳さいだった俺おれは、両親に連れられて、わけもわからないまま葬そう式しきに参列させられた。

 よくわからなかった。

 焼しよう香こうや香こう典でんといった葬そう式しきの流れも──そして、人が死ぬということも。

 亡なくなった二人は──とても優やさしい人ひと達たちだった。朝、小学校に向かう俺おれを見かけると、いつも笑え顔がおで挨あい拶さつをしてくれた。うちの家族と一いつ緒しよに庭でバーベキューをしたこともある。

 人が死ぬということはよくわからなかったけれど、二人にもう会えないと思うと、とても悲しい気持ちになった。

 そして──美み羽うちゃんはどうなるんだろう、と思った。

 亡くなった夫ふう婦ふには五歳さいになる娘むすめがいた。

 保育園にいる美み羽うちゃんを迎むかえに行って、それから家族三人で外食をしようとしていたところ──迎むかえの途と中ちゆうで、不幸な事故は起こってしまったらしい。

 美み羽うちゃんは、もう二度と、パパにもママにも会えない。

 それはなんだか、途と方ほうもない悲劇のように思えた。

 けれど。

 美み羽うちゃん本人は、まだ状じよう況きようを理解できていないようだった。葬そう儀ぎ中はずっと、きょとんとした顔で、借りてきた猫ねこみたいに大人しくしていた。

 パパとママが死んだことを、まだわかっていないのかもしれない。

 人が死ぬということがどういうことか、わかっていないのかもしれない。十歳さいの俺おれにもよくわからないのだから、五歳さいの彼かの女じよには、もっともっとわからないことなのだろう。

 そんな彼かの女じよに向けて、黒い服を着た大人達たちは次々に「かわいそう」という言葉を投げつける。かわいそうに、かわいそうに、と。

 まるで──決めつけるみたいに。

 まるで──植えつけるみたいに。

 静せい謐ひつな空気で行われた法要の後に、大人達たちは畳たたみの部屋で会かい食しよくを始める。精しよう進じん落とし、というらしい。テーブルにはお酒や寿す司しが並んでいた。

 お酒が入ると──そのタイミングを待っていたとばかりに、大人達たちは現実的な話を始めた。現実的で、俗ぞくっぽくて、世せ知ち辛がらい話を始めた。

 ──だから、うちじゃ引き取れないと言ってるだろ。

 ──うちだって無理よ。三人も子供がいるのよ。

 ──兄貴はどうだよ。まだ独り身だろ?

 ──ふざけんな。子供なんていたら、ますます結けつ婚こんできなくなる。

 ──施し設せつにでも入れるしかないだろうな。

 ──ダメだ、施し設せつになんか入れたら、世せ間けん体ていが悪いだろ。

 ──そうよ、私わたし達たちが追い出したみたいになるじゃない。

 ──だったら、お母さんが見たらいいでしょ。

 ──私はお義父とうさんの世話で手て一いつ杯ぱいなのよ。あなたも、私にばっかり任せてないで、少しはお義父とうさんの介かい護ごを手伝ったらどうなの?

 声を荒あららげているのは、美み羽うちゃんの親しん戚せきの人ひと達たちのようだった。

 誰だれが彼かの女じよを引き取るかで、揉もめている。

 要するに──誰だれも引き取りたくないらしい。みんな自分や自分の家族のことで精せい一いつ杯ぱいで、他人の子供を育てる余よ裕ゆうはないようだ。

 押おし付つけ合いは、どんどん白熱していく。

 美み羽うちゃんが大人達たちの言葉をどれだけ理解できているかはわからないが──大人達たちは『どうせ五歳さいの子供にはわからないだろ』と思おもい込こんで、好き放題自己主張しているようだった。

 十歳さいだった俺おれにもわかるぐらい、醜しゆう悪あくな空気が場を満たす。

 不意に誰だれかが「一人残されるぐらいなら、この子も親と一いつ緒しよに──」と、耳を塞ふさぎたくなるような言葉を言いかけた、その瞬しゆん間かんだった。

 だんっ! と。

 テーブルを強く叩たたく音と共に、一人の女性が立ち上がった。

「──この子は私が引き取ります」

 凜りんとした声が、鬱うつ々うつとした空気を切きり裂さく。

「聞こえませんでしたか? この子は──姉さん達たちの子供は、私が引き取ると言ったんです」

 周囲の大人達たちが呆あつ気けにとられたように押おし黙だまっていると、彼かの女じよは言葉を繰くり返かえした。

 亡なくなった夫ふう婦ふの、奥おくさんの方の妹であるらしい。

 柔やわらかな雰ふん囲い気きを持つ、美しい女性だった。

 年は二十歳はたちぐらいだろうか。

 垂れ目がちで、温和な顔つきをしている──けれど今、彼かの女じよは静かな怒いかりを秘めた目で、親しん戚せき一同を睨にらみつけるように見下ろしていた。

「ちょ、ちょっと、なに言ってるのよ、綾あや子こ」

 隣となりに座すわる女性が、慌あわてた様子で彼かの女じよを──綾あや子こさんを制した。

 彼かの女じよの母親のようだ。

「あなたが引き取るって……そんなことできるわけないでしょう。あなた、今年やっと働き始めたばかりなのに……そんなあなたが、子供一人の面めん倒どうを見るなんて……」

「ごめんね、お母さん。でも──もう決めたから」

 綾あや子こさんは母親を振ふり払はらい、颯さつ爽そうと歩き出す。

「これ以上一秒たりとも、美み羽うちゃんをこんな場に置いておきたくない」

 迷いない足取りで、隅すみの方に座すわっていた少女の元へと向かう。

 膝ひざを折り、彼かの女じよと目線を合わせた。

「美み羽うちゃん。これから私と一いつ緒しよに暮らさない?」

「綾あや子こおばさん、と……?」

「そう、おばさんと一いつ緒しよに暮らそう」

「……でも、美み羽う、パパとママと、一いつ緒しよがいい」

「美み羽うちゃんのパパとママは……ちょっと遠いところに行っちゃったんだ。だから、もう一いつ緒しよには暮らせないの」

「……じゃあ美み羽う、ひとりぼっちなの?」

「そうね。でも実は、おばさんも今、ひとりぼっちなんだ」

「綾あや子こおばさんも?」

「そうそう。困っちゃうわよねー。就職決まったから、調子に乗って一人暮らし始めたんだけど……生まれてからずっと実家暮らしだったから、一人で生活するのが、寂さびしくて寂さびしくて」

 だからね、と綾あや子こさんは言う。

 優やさしげな眼まな差ざしで、美み羽うちゃんに手を伸のばしながら。

「おばさん、毎日が寂さびしくてつまらないから、美み羽うちゃんと一いつ緒しよに暮らしたいの。いいかな?」

「……ん。いいよ」

 美み羽うちゃんが頷うなずくと、綾あや子こさんは太陽のように明るく笑った。

「よしっ! おいで!」

 少女の手を取り、そのまま抱だきかかえる。

「わーっ! 久しぶりに抱だっこしたけど、重くなったね、美み羽うちゃん。腰こしやっちゃいそう」

「ふふっ。おばさん、おばさんみたい」

「あーっ、そういうこと言う悪い子は、こうだぞ? このこの~っ」

「あははっ、やめて、綾あや子こおばさん、くすぐったいっ」

 楽しげに、今この瞬しゆん間かんが葬そう式しきの直後だということも忘れてしまいそうなぐらい楽しげに、二人は微笑ほほえんでいた。

 周囲の大人達たちは、なにも言えずに押おし黙だまっている。何なん人ぴとたりとも汚けがすことのできない、聖域の如ごとく尊い気配が、そこにはあった。

 俺おれは──ただ、綾あや子こさんに目を奪うばわれていた。

 神様の悪戯いたずらで絶望の底に叩たたき落おとされた少女に、迷いなく手を差さし伸のべた彼かの女じよが、俺おれには眩まぶしくて仕方がなかった。

 悲劇を覆くつがえしてしまった彼かの女じよが、気高き英えい雄ゆうのようにも慈じ悲ひ深ぶかき聖女のようにも見えて、心を鷲わし摑づかみにされたような気がした。

第一章 母親と少年


    ♥


 シングルマザーの朝は早い。

 眠ねむい目をこすって早起きして、高校に通う娘むすめのために、毎朝お弁当を作ってあげなければならない。

 はあ、中学までは給食があってよかったのになあ。

「……なんて愚ぐ痴ちってもしょうがないか」

 一息つきつつ、私は四角いフライパンで卵を焼いていく。卵焼きは朝食のおかずにも子供のお弁当にも使えて、主婦の強い味方よね。

 並行作業していた味み噌そ汁しるが沸ふつ騰とうしそうだったので、慌あわてて火を止める。

 ちょっと味見。うん、今日も上出来♪

 完成した朝食をテーブルに並べているタイミングで、

「わーっ! ヤバいヤバい! 完っ全に寝ね坊ぼうった!」

 ドタドタと騒そう々ぞうしい音を立てながら、娘むすめの美み羽うが二階から降りてくる。

『寝ね坊ぼうった』という動詞が娘むすめの造語なのか、それとも最近の若者言葉なのかは、アラサーの私にはわからない。

 階段を降りて洗面所へと向かい、ドタドタと準備を終えるとリビングへと入ってくる。

 美み羽うは、四月から通い始めた高校の制服に袖を通している。

 一応、県内有数の進学校。中学の成績は正直微び妙みようだったけど、家庭教師が優ゆう秀しゆうだったおかげでどうにか入学することができた。県内の多くの中学生が憧あこがれているだろう名門校の制服を、しかし娘むすめは、だいぶ適当に着こなしていた。

 ああ、もうっ、雑に着るからシャツがシワだらけじゃない。

 せっかく昨日アイロンかけてあげたのに!

「なんで起こしてくれなかったの、ママ!?」

「何度も起こしました。あなたが起きなかったの。ほら、さっさと食べちゃいなさい。早くしないとタッくんが来るわよ」

「わかってるってば!」

 娘むすめは卓たくにつき、大おお慌あわてで朝食を食べ始める。

 歌枕かつらぎ美み羽う。

 血は繫つながっていないけれど、私──歌枕かつらぎ綾あや子この、たった一人の娘むすめ。

 ああ──いや。

 厳密には、血が繫つながってないわけでもないのかな。

 私のお姉ちゃんが、お腹なかを痛めて産んだ子なのだから。

 あの日から──

 葬そう儀ぎ場でこの子を引き取る決意をし、姉夫ふう婦ふが残したこの家で暮らし始めてから、もう、十年も経たってしまった。

 なんだかちょっと信じられない。

 あっという間で、怒ど濤とうの十年間だった。

 いろいろあったけれど──一言では語り尽つくせぬぐらいにいろいろあったけれど、どうにか今は母娘おやこになれていると思う。

 この子が『ママ』と呼んでくれるだけで、私は毎日を頑がん張ばれる。

「あーあ。まったく……タク兄も、毎日迎むかえに来なくてもいいのに。どうせ駅で別れるんだからさ」

「そんなこと言わないの。せっかく迎むかえに来てくれるんだから。それに……あなただって本当は嬉うれしいんじゃないの?」

「どういう意味?」

「別にぃ。ただね、あんまりのんびりしてると、タッくんを他の女の子に取られちゃうわよ?」

 冗じよう談だんめかして言うと、美み羽うは盛せい大だいに溜ため息いきを吐ついた。

「あのね……いつも言ってるけど、私とタク兄はそういうんじゃないから。ただの幼おさな馴な染じみで、ただの家庭教師のお兄さん。ほんとそれだけ」

「えー、そうなの?」

「そうなの。私はタク兄のことなんてなんとも思ってないし、向こうも私のことなんてなんとも思ってないよ」

「ふぅん。まあいいけど」

 呆あきれ口調で言う美み羽うに、私は軽く肩かたをすくめた。

 まったく、素す直なおじゃないんだから。

 お似合いだと思うんだけどなあ、美み羽うとタッくん。

 向こうだって、なんとも思ってないってことはないでしょう。

 なんの下心もなく、毎朝毎朝迎むかえに来てくれる男が、どこにいるっていうのよ?

 と、そのとき。

 家のチャイムが鳴った。私は玄げん関かんへと向かう。

「おはようございます、綾あや子こさん」

 ドアを開いた私に、丁てい寧ねいに挨あい拶さつを述べる好青年。

 清潔感のあるシャツに、細身のジーパン。肩かたには、今時の若者っぽいトートバッグ。左手にはちょっと高級そうな腕うで時ど計けい。大学入学祝いにお父さんに買ってもらったものだと聞いている。

「おはよう、タッくん」

 タッくん──こと、左沢あてらざわ巧たくみくん。

 この家の隣となりに住む大学生の男の子。

 美み羽うとは、幼おさな馴な染じみという関係になるのだろう。

 私がこの家に住む前から──つまり、姉夫ふう婦ふがまだ生きていた頃ころから、美み羽うとはお隣となり同士で付き合いがあったらしい。

 十年前──私が美み羽うを引き取り、家主がいなくなったこの家に住み始めてからも、お隣となりとして付き合いが続いている。

 ちなみに、タッくんは美み羽うの家庭教師でもある。

 有名大学に通う優ゆう秀しゆうな彼かれの情熱的指導のおかげで、美み羽うはどうにかこうにか志望校に合格することができた。

「ごめんね、タッくん。美み羽うったら寝ね坊ぼうして、まだご飯食べてる途と中ちゆうなの。少し待っててもらえる?」

「ごめん、タク兄! ちょっと待ってて!」

 リビングから声だけで言う美み羽う。タッくんは苦く笑しようする。

「わかりました。てか……綾あや子こさん、いい加減、『タッくん』って呼ぶのやめてくださいよ。俺おれ、昨日でもう二十歳はたちになったんですよ?」

「うふふ、ごめんね。なかなか昔のクセが抜ぬけなくて。でも……そっか。タッくんももう、二十歳はたちになったのよね」

 つい感かん慨がい深ぶかい気持ちになって、まじまじと相手を見つめてしまう。

「小さい頃ころはあんなにかわいかったのに、いつの間にかこんなに大きくなっちゃって」

 初めて会った頃ころ──まだ十歳さいだった頃ころのタッくんは、華きや奢しやで背も小さくて、まるで女の子みたいだった。

 でも、中学で水泳を始めた辺りから、背がどんどん伸のびて体格もよくなっていって、今じゃ立派な青年となっている。

 私はつい一歩踏ふみ出だして、頭に手を乗せてしまう。玄げん関かんの一段低いところに立っているのに、それでも私より頭が上にある。本当に大きくなっちゃって。

 すると、タッくんは照れたような顔で一歩離はなれた。

「や、やめてくださいよ。子供じゃないんですから」

「あら、ごめんなさい。タッくんってば本当に大きくなったなあ、ってしみじみ思っちゃって、つい」

「……呼び方も」

「あっ、ほんとだ。うーん……なんだかもう、完全に『タッくん』で慣れちゃってるから、急に変えるのも難しいわね。この十年『タッくん』って呼んできたわけだし」

「…………」

「代わりにタッくんも私のこと、昔みたいに『綾あや子こママ』って呼んでくれてもいいのよ?」

「なんの代わりなんですか……?」

「うふふ。いいじゃないの。私はタッくんのこと、息子むすこ同然にかわいく思ってるんだから」

「……息子むすこじゃないですよ」

 ぽつり、と。

 真しん剣けんな声こわ音ねで、タッくんは言った。

「俺おれは──綾あや子こさんの息子むすこじゃありません」

「タッくん……?」

「……あっ。す、すみません。なんか、当たり前のこと言っちゃって」

「え。う、ううん……いいのよ、別に」

 誤ご魔ま化かすように笑うタッくんに、私も合わせて笑うけれど、鼓こ動どうが少し速くなっていた。

 びっくりしちゃった。

 だって──急に真面目な顔をするから。

 鋭するどい眼光と、男性特有の低い声。彼かれがもう、一人の男だということを意識させられて、不覚にもドキドキしてしまった。

「──ごめんごめん、遅おそくなっちゃったっ!」

 朝食を終えたらしい美み羽うが、駆かけ足あしで玄げん関かんに来て靴くつを履はく。

「お待たせ、タク兄」

「おう。それじゃ綾あや子こさん、行ってきます」

「行ってきまーす」

「ええ、行ってらっしゃい。あ。そうそう」

 私はふと思い出して、念のために言っておく。

「今日の夕方……五時ぐらいから始めるから、二人とも遅おくれないようにね」

「はい」

「わかってるって」

 言われるまでもない、とばかりに頷うなずいて、二人は玄げん関かんから出て行った。

 私はホッと一息。

 毎朝娘むすめを送り出すと、「一人になれた」という安あん堵ど感と、「一人になっちゃった」という寂さびしさが同時に来る。

 もしも、と考えてしまう。

 不意に、考えてしまった。

 もしも美み羽うがいつか、家を出て行くようになったら──誰だれかと結けつ婚こんしたりして、この家を出て行ったら。

 今度は私が、ひとりぼっちになってしまうのだろうか。

 美み羽うをひとりぼっちにさせたくなくて彼かの女じよを引き取ったのに、いつかは私の方がひとりぼっちに──

「……いやいや、まだ早すぎるから」

 まだ娘むすめは十五歳さい。

 高校に入学したばかり。

 そんな未来を想像して不安がるのは、杞き憂ゆうもいいところだ。

「でも……まあ、そうね。相手がタッくんなら……結けつ婚こんして相手の両親と同居ってなっても、お隣となりさんだから寂さびしくはないわよね」

 結けつ婚こんした娘むすめが、徒歩一分のお隣となりに住んでる──うんうん、なんかいいわね!

 全然、寂さびしくなさそう!

 タッくんは真面目でいい子だし、いつの間にか背も伸のびて格好良くなっちゃったし、それに有名大学に通ってて将来有望だもんね!

 娘むすめの相手として申し分なし!

 となれば……やっぱりあの二人には、早くくっついてもらわないとね!

 ちゃっかり私の老後の面めん倒どうとかも見てもらっちゃおう!

「お似合いだと思うんだけどなあ──うん?」

 妄もう想そうを逞たくましくしながらキッチンに戻もどったところで、ある物を発見した。

 かわいらしい包みに包まれたそれは、私が早起きして一いつ生しよう懸けん命めい作った、お弁当だった。

「あ~~っ、もうっ!」

 大急ぎで家から飛び出し、仲良く歩いている二人の背に声をかける。

「ちょ、ちょっと美み羽う! お弁当忘れてるわよ~っ!」

 娘むすめを引き取ってから、早十年。

 こんな騒そう々ぞうしい毎朝が、私の日常だった。



 娘むすめを送り出し、洗い物や洗せん濯たくを軽く済ませた後に、私は自分の仕事に取りかかる。

 母親モードから、社会人モードへと切きり替かえる。

 テーブルの上にノートPCを広げ、飲み物も準備。

 ちなみに飲み物は、『ドルチェグスト』で用意した『ウェルネススムージー』。

 飲みやすくフルーティーな青あお汁じるで、一日分の緑黄色野菜が取れる素す晴ばらしい飲み物である。私ももう三十を超こえたわけだし、こういうところから気をつけていかないとね。

「──じゃあ、狼森おいのもりさん。今打ち合わせた内容を、イラストレーターには私の方から伝えておきますね。ライターチームの方とも、来週までには内容を摺すり合あわせておきます」

『うん。よろしく頼たのむよ、歌枕かつらぎくん』

 電話の向こうから聞こえるのは、いつもの狼森おいのもりさんらしい鷹おう揚ような返事だった。落ち着いた女性の声だが、口調は男性的。いついかなるときもどっしりと構えている人で、十年一いつ緒しよに仕事しているけれど、私は彼かの女じよが慌あわてた様子を見たときがない。

 狼森おいのもりさんは私の上司──というか、私が勤めている会社の代だい表ひよう取とり締しまり役やくとなる。私より十以上年上なのに、声も見た目も、そしては感性も、まだまだ若々しい。

『しかし今回のプロジェクトでは、歌枕かつらぎくんには本当に助けられているよ。きみなしではこの仕事をうちが受けることもできなかっただろう』

「なに言ってるんですか。私なんて、ただのしがない編集ですよ」

『謙けん遜そんなさるな。「きみが担当ならば」という条件で、仕事を引き受けてくれたクリエイターも多いんだ。この十年、きみが積み上げてきた実績と信しん頼らいが実を結んだということだろう』

「十年、ですか……」

『そう、十年だ。ふむ……自分で言っておいてアレだけど、なんだか不思議な気分だよ。歌枕かつらぎくんと一いつ緒しよに働き出してから、もう十年も経たってしまったのか』

 懐なつかしむような声に、私の意識も過去に引っ張られる。

 狼森おいのもりさん──狼森おいのもり夢ゆめ美み。

 元々は超ちよう有名出版社で働くカリスマ編集者だったが、十年前に独立し、自分の会社『ライトシップ』を立ち上げた。

 私はその新会社に──十年前に入社した。

 業務内容は……人には大変説明しづらい。

 社長の『楽しければなんでもいい』という企き業ぎよう理念の元、様々なエンターテインメント事業に携たずさわっている。

 私は肩かた書がき的には『編集』となるが、編集者の枠わくを飛とび越こえて様々な事業に関わっている。最近は主に、クライアントとクリエイターの仲ちゆう介かい業をやっている感じ。

「……狼森おいのもりさんには、本当に感謝しています。新入社員が突とつ然ぜん『今日から子持ちになりました』なんて言ったら……普ふ通つうの会社だったら、すぐにクビになっていたと思いますから」

 十年前──私は『ライトシップ』に入社してすぐのタイミングで、美み羽うを引き取った。

 新入社員が、いきなり未み婚こんのシングルマザー。

 人事からしてみれば、ふざけんな、という話だろう。最終面接での『結けつ婚こん・出産の予定はありますか?』という質問に対して、『当分予定はありません』と答えておきながら、これなのだから。

 当然の如ごとく、保育園の行事だとか熱を出して呼び出されたりとかで、入社直後から早退しまくり有給使いまくり。

 正直、クビになっても仕方がないと思っていた。

 しかし狼森おいのもりさんは、子持ちとなってしまった私のために、様々な便べん宜ぎを図はかってくれた。突とつ然ぜんの早退や欠勤でも他の人がフォローしてくれるような体制を整えてくれたし、在宅での仕事も認めてもらえた。

『礼を言われるほどのことじゃないよ。社員が最大限に働ける環かん境きようを作るのは、会社として当然のことだからね。そして……社長ではなく一人の女として、きみのことを応おう援えんしたくなってしまったのさ。姉夫ふう婦ふの子供を育てる決断をした、きみのことを』

「狼森おいのもりさん……」

『しかし、その引き取った少女──美み羽うちゃんも今は高校生だろう? 手もかからなくなってくる年とし頃ごろだ。歌枕かつらぎくんも、そろそろ自分の幸せについて考えるべきじゃないのかい?』

「私の幸せ?」

『彼かれ氏しの一人でも作ってみたらどうだい、という話だよ』

 酔よっ払ぱらいが絡からんでくるような声こわ音ねで、そんなことを言ってくる狼森おいのもりさん。突とつ然ぜんの話題転てん換かんに、私は言葉に詰つまってしまう。

「か、彼かれ氏しって……」

『美み羽うちゃんを気き遣づかって、これまで誰だれとも付き合わずに来たのだろう? 十年も我が慢まんしてたんだ。そろそろ恋れん愛あいを解禁してもいいと思うけどね』

「別に、我が慢まんしてたつもりは……」

『恋こいはいいよ、歌枕かつらぎくん。恋こいをすると、仕事に張りが出てくる』

「……三回も離り婚こんした人に言われても」

『あはは。私は恋こい多き女だからね』

 毒づいてみても、まるで気にする素そ振ぶりもない。

 三回の離り婚こん、その全てが自分の浮うわ気きが理由──狼森おいのもり夢ゆめ美みは、そういう奔ほん放ぽうで豪ごう快かいな女性だ。死ぬほど稼かせいでるけど、貯金は慰い謝しや料で全部消えてる。基本、常に三人ぐらい彼かれ氏しがいる。社会人としては尊敬しているけれど、一人の女性としては……正直、全く尊敬していない。

 私は一つ息を吐はく。

「狼森おいのもりさん。私は……まだまだ恋れん愛あいをするつもりはありませんよ。今の私にとって、一番大事なのは娘むすめの美み羽うですから」

 十年前、美み羽うを引き取ったときに覚かく悟ごは決めた。

 姉夫ふう婦ふの子供を、私がきちんと育てようと、決意した。

 一度も結けつ婚こんも出産も経験してない私だけど──今の私は母であり、独り身とは違ちがう立場になっている。

 無責任に恋れん愛あいしていい立場じゃない。

 今の私が誰だれかと付き合い、結けつ婚こんという話になれば──その相手はイコール、美み羽うの義父となってしまう。

 ただでさえ──私と美み羽うは、本当の母娘おやこではない。そこにまた『他人』が新たな家族として増えるなんて、美み羽うにとってどれだけの負担になることか。

「狼森おいのもりさんはさっき、『そろそろ自分の幸せ』と言いましたけど……私、今、十分幸せですから」

 愛する娘むすめがいて、一応尊敬できる上司の元でやりたい仕事ができている。

 これ以上望むのは、贅ぜい沢たくというものだろう。

『ふむ。きみほどの美人がもったいない話だね。女の盛さかりを迎むかえて、そろそろ人恋こいしくなってくる年とし頃ごろじゃないのかい? 女は三十過ぎてからの性欲がすごいからね。きみもそのダイナミックな肉体を持て余して、夜な夜な一人で慰なぐさめる日々を送っているんじゃ──』

「狼森おいのもりさん。女上司相手でも、セクハラって成立しますよ?」

『おっと失礼』

 さすがにセクハラで訴うつたえられるのは怖こわかったのか、会話を切り上げる狼森おいのもりさん。私は溜ため息いきを吐つく。

「そりゃまあ、男が欲ほしくないわけじゃないですけど、でも、今は考えられないですね。少なくとも、娘むすめが成人するまで……いえ、大学を卒業して定職に就つくまでは、母親に専念しようと思っています」

『大学卒業って……その頃ころきみは、アラフォーに足を踏ふみ入いれてるんじゃないのかい?』

「まあ、それはしょうがないですね」

 私は冗じよう談だんめかして言う。

「もし結けつ婚こんできなかったら、娘むすめの旦だん那なさんに養ってもらいますから」



 在宅での仕事を早めに切り上げてから、私は夜のために準備に取りかかった。料理を作ったり、予約していたケーキを取りに行ったり。高校から帰ってきた美み羽うも途と中ちゆうから準備を手伝ってくれた。

 今日の夜はうちでパーティーを開くことになっている。

 一日遅おくれの、タッくんのお誕生会──

「んんっ。えー、それでは、我ら歌枕かつらぎ家の愛すべき隣りん人じん、左沢あてらざわ巧たくみくんの記念すべき二十歳はたちの誕生日を祝しまして~、かんっぱーい!」

 私の挨あい拶さつに合わせて、三つのシャンパングラスが卓たくの中央で重なり、心ここ地ちよい音が鳴る。

 ちなみに中身は、美み羽うに合わせたノンアルコールのシャンメリー。

「すみません、わざわざお祝いしてもらって」

 サラダやローストビーフ、ピザなどのパーティーメニューが並んだ卓たくの向かい側では、タッくんが照れくさそうに笑う。

「お祝いするに決まってるでしょう? タッくんはもう、うちにとって家族みたいなものなんだから。はい、どうぞ」

 料理を取り分けて手て渡わたすと、小さく頭を下げる。

「ありがとうございます。すごく嬉うれしいです。こんなご馳ち走そうまで用意してもらって」

「大したことないわよ。買ってきたのも多いし。昨日の方が、おうちの人に盛せい大だいにお祝いしてもらったんじゃないの?」

「うちは外食しただけですから。正直……綾あや子こさんの手料理食べられる方が嬉うれしいです」

「あら。褒ほめてもなんにも出ないわよ?」

 あーんもう、タッくんってば……素す直なおでかわいいわぁ。

 ほんと、今すぐにでも婿むこに欲ほしいっ!

「タク兄も二十歳はたちかあ、なんか信じられないなあ」

 自分で勝手にサラダをよそって食べていた美み羽うが、しみじみと呟つぶやいた。

「これでもう、犯罪起こしても匿とく名めいじゃなくて実名で報道されちゃうんだね。気をつけてよ、タク兄」

「なにを気をつけるんだよ。犯罪なんかしねえよ」

「どうかなあ。タク兄みたいな真面目そうな奴やつが実は、ってパターン多いから」

「……お前、そういう失礼なこと言ってると、宿題倍にするからな」

「ええ!? なにそれ、職権乱用じゃん! てかタク兄、なんでまだ家庭教師してくんの? 受験終わったんだから、もういいでしょ!」

「私からお願いしたのよ」

 不満げな美み羽うに告げる。

「美み羽う。あなたは、タッくんのおかげで奇き跡せき的に滑すべり込こみセーフで合格しただけなんだから。油断してるとすぐ授業についていけなくなるわよ?」

「えー、そんなぁ」

「不出来な娘むすめだけど、これからもよろしくね、タッくん」

「了りよう解かいしました。ビシバシ鍛きたえときます」

「……ぶー」

 笑い合う私わたし達たちと、不満そうな美み羽うだった。

「あっ。そうそう思い出した」

 私は席を立ち、キッチンの奥おくからあるものを取り出してくる。

「じゃじゃーん! もらい物のワイン!」

 得意げに掲かかげつつ、ボトルをテーブルに置いた。

「うふふ。ちょっと前に、一いつ緒しよに仕事した作家さんからいただいたのよね。ねえタッくん、二十歳はたちになった記念に、よかったら一いつ緒しよに飲まない?」

「え……いいんですか? こんな、高そうなの」

「いいのいいの。私、一人じゃあんまり飲まないから。ずっと放置しちゃってたのよね」

 お酒が嫌きらいなわけではないけれど、一人で晩ばん酌しやくするタイプじゃない。

 娘むすめの前で一人で酔よっ払ぱらうのもみっともないしね。

「タッくんが一いつ緒しよに飲んでくれるなら、嬉うれしいんだけどなあ」

「……そういうことなら、是ぜ非ひ」

 嬉うれしそうに頷うなずくタッくん。よかったよかった。せっかくの高級品なんだから、みんなで分け合わないとね。

 私は栓せん抜ぬきでコルクを抜ぬいた後、用意したグラスにワインを注いでいく。赤い液体が空気と混ざり合い、フローラルな香かおりが一気に広がった。

「わー、いい香かおり。さすが高いワインね」

「むー……いいなあ、ママとタク兄ばっかり」

 美み羽うが拗すねたように頰ほおを膨ふくらませていた。

「ねえ、ママ。私にもちょうだい?」

「ダメよ。あなた、ピチピチの女子高生でしょ。香かおりだけにしときなさい」

「ケチ。ちょっとぐらいはいいでしょ」

「ダメったらダメ。最近はね……その辺の規制が本当に厳しいのよ。未成年の飲酒シーンはギャグだって許されないんだから。だから無理矢理キャラの年ねん齢れいを上げたり、匂においだけで酔よったことにしたり、制作サイドもいろいろ工く夫ふうして……」

「いいからちょうだいってば!」

 つい出てしまった出版業界関係者っぽい愚ぐ痴ちを無視して、美み羽うは椅い子すから立ち上がって手を伸のばし、私が持ってるグラスを摑つかんだ。

「ちょっと、美み羽う……」

「一口だけ、一口だけでいいから」

「ダメよっ。離はなしなさい」

「……二人とも、あぶな──」

「「あっ」」

 美み羽うと取り合っていたグラスが、大きく傾かたむいた。

 中の液体は、仲ちゆう裁さいに入ろうとしたタッくんにかかってしまった。



 頭から盛せい大だいにかぶってしまったため、タッくんは洗面所で顔と頭を洗いに行った。美み羽うにはリビングの掃そう除じを任せて、私はタオルを用意する。

「タッくん。これ使って」

「どうも」

「……ごめんね、私わたし達たちのせいで」

「いえ。事故ですから気にしないでください」

 優やさしく笑ってくれるタッくん。本当にいい子ねー。

「気になるなら、シャワー浴びちゃってもいいわよ? 着き替がえも肌着も、前にタッくんが泊とまりに来たときのがあるし」

 美み羽うの受験直前の話だ。あのときタッくんは『合宿』と称しようして、一週間ぐらいうちに泊とまって最後の追おい込こみをかけてくれた。まあ家が隣となりなので、ちょいちょい帰ったりもしてたけど。

「なんなら……」

 ふと悪戯いたずら心ごころが湧わいて、私はつい言ってしまう。

「私と一いつ緒しよに入っちゃう?」

「えっ!?」

 案の定、タッくんは顔を真っ赤にしていいリアクションをしてくれた。

「ワインをかけちゃったお詫わびに、背中、流してあげるわよ」

「な、なに言ってるんですか……」

「うふふ。そんなに照れなくてもいいじゃない。昔、一いつ緒しよにお風ふ呂ろ入ったことだってあるんだから」

「それは……十年前の話でしょ」

 困り果てた様子のタッくんに、私はクスクスと笑う。

「うふふ。ごめんごめん。冗じよう談だんだから真に受けないで」

「……からかわないでくださいよ」

「じゃ、着き替がえ取ってくるから待っててね」

 私は洗面所を後にして、廊ろう下かにあるクローゼットを開く。えーと、確かこの辺に……あったあった。

「タッくん、着き替がえはこれで──きゃっ!」

 脱だつ衣い所じよの扉とびらを開けた私は、小さな悲鳴を上げてしまう。

 目の前では──ちょうどタッくんが、汚よごれたシャツを脱ぬいだところだった。上半身は裸はだか。細身ながらも鍛きたえられた男の肉体が、目に飛とび込こんでくる。

「あ……す、すみません」

「う、ううん。私こそ、急に開けてごめんなさい。えと……き、着き替がえはここに置いておくからっ」

 横の棚たなに着き替がえを置いて、私は逃にげるように脱だつ衣い所じよの扉とびらを閉めた。

「……はあ」

 扉とびらを背に一つ溜ため息いき。

 羞しゆう恥ち心しんが去った後には軽い自己嫌けん悪おが湧わいた。

 男の上半身を見たぐらいで照れちゃうなんて……乙女おとめなの、私は? もういい年なのに女子中学生みたいな反応をしてしまったことが、本当に恥はずかしい。「きゃっ」てなによ「きゃっ」て。下半身が見えちゃったならともかくさ。

 ああ──でも。

 なんていうか……ちゃんとした、男の裸はだかだったなあ。いや変な意味じゃなくて、筋肉質で骨張ってて、立派な青年の体つきだったと思う。

 当然ながら、もう一いつ緒しよにお風ふ呂ろに入れるような年じゃない。

 かわいくてかわいくて仕方がなかったお隣となりの少年は、もうお酒も飲める成人男性となっていたのだ。



 タッくんの着き替がえが済んでから、パーティーを再開。

 三人で料理を楽しみ、最後には私の手作りケーキを出したりもしちゃって、あっという間に三時間ぐらいが経過した。

「ずいぶんと遅おそくなっちゃったわね」

 ワイングラスを傾かたむけながら、私は壁かべの時計を眺ながめた。時刻はすでに十時を回っている。テーブルの料理は大体片付いていて、お摘つまみ用のチーズとクラッカーだけがあった。

 美み羽うはもう部屋で寝ねている。パーティー中に「なんか眠ねむい」と言って途と中ちゆう退場。お酒は一滴てきも飲んでないけれど、匂においにやられてしまったのかもしれない。

 リビングには、私とタッくんの二人だけ──

「そろそろ帰らなくても大だい丈じよう夫ぶ?」

「ええ。うち、門限とかないですし。もしかしたら泊とまってくるかもしれない、って言ってありますから」

「あらそう。じゃあ、もう少しだけおばさんに付き合ってね」

 そう言って私は、タッくんのグラスにワインを注いだ。

「いただきます」

「あ。でも、飲み過ぎには注意してね。無理に勧すすめるつもりはないから」

「大だい丈じよう夫ぶですよ。俺おれ、結構強い方ですから」

「へえ、そうなんだ。ってことは……二十歳はたちになる前から、結構飲んでたのね?」

「あー……いや、えっと。今の発言は、なしで」

「ふふっ。わかった、聞かなかったことにする」

 二人で笑い合う。

 ああ、なんだかすごくいい気持ち。久しぶりに酔よっ払ぱらった、って感じがする。高いワインだけあって、酔よいの回り方も上品な気がするぅ。

「はぁー……なんだか、信じられないなあ。タッくんとこうして、一いつ緒しよにお酒が飲めるようになるなんて」

 グラスの中のワインをくるくる回して眺ながめていると、零こぼれ落おちるみたいに言葉が出ていった。

「年を取ると、時が経たつのって本当に早いわよね。気づかないうちにどんどんおばさんになってっちゃう」

「……綾あや子こさんは全然おばさんじゃないですよ」

「いいのよ、無理してお世辞言わなくて」

「お世辞じゃないです! 綾あや子こさんは、すごく綺き麗れいで、優やさしくて大人の魅み力りよくがあって、だから……えっと」

 言葉の途と中ちゆうで照れてしまったのか、顔を赤くしてしまうタッくん。私は嬉うれしいような恥はずかしいような、むず痒がゆい気持ちになってしまう。

「ふふ。ありがとう。タッくんだけよ、私にそんな嬉うれしいこと言ってくれるのは。美み羽うなんか最近、私のこと、おばさん扱あつかいばっかりしてきて、嫌いやになっちゃうわ」

 愚ぐ痴ちるように言ってから、ワインを一口飲む。フルーティーな香かおりが口の中いっぱいに広がり、気分が高こう揚ようしていくのが自分でもわかった。

「ねえねえタッくん」

 私はつい、身を乗り出して訊きいてしまう。

「タッくんって……彼かの女じよはいないの?」

「……っ。な、なんですか、いきなり」

「いいじゃない。恋こいバナしましょう、恋こいバナ」

 うーん。なんか、本当に酔よっ払ぱらったおばちゃんって感じになっちゃってるわね、私……。ちょっと自己嫌けん悪おだけど、でもせっかくだし踏ふみ込こんだ話をしちゃおっかなー。

「どうなの、タッくん? 本当のとこ、おばさんに教えてよ」

「い、いないですよ」

 じっと見つめながら問うと、タッくんは恥はずかしそうに答えた。それから照てれ隠かくしみたいに、ぐいっとワインを飲み干す。

「……つーか、正直に言えば、今までいたことないです」

「えー? そ、そうなの?」

 意外だったので少し驚おどろいてしまう。

 するとタッくんは、傷ついたような顔になった。

「そんな引かないでくださいよ……」

「あ……ご、ごめんね。別にバカにしたわけじゃなくて、ちょっと驚おどろいただけだから……。だってタッくん、モテそうなのに」

「モテないですよ、俺おれなんて」

「噓うそぉ……だって優やさしいし勉強もできるし、見た目だって格好いいし。高校のときだって、水泳で大だい活かつ躍やくだったでしょ」

「大だい活かつ躍やくって言っても県大会レベルですから。まあ……県大会で優勝したときは……何人かの女子に、告白みたいなことされましたけど」

「ほら、やっぱりモテてる。その子達たちと付き合おうっては思わなかったの?」

「まあ……なんか、違ちがうかな、って」

「ふぅん。そうなんだ。じゃあタッくん──好きな子は?」

「え……?」

「今、好きな子はいないの? 彼かの女じよはいなくても、気になってる子ぐらいはいるんじゃないの?」

「そ、それ、は……」

 タッくんは露ろ骨こつに言葉に詰つまった。すごく緊きん張ちようした感じ。

 おやおや、この反応は……。

「あー、いるんだ。彼かの女じよはいないけど、好きな子はいるんだ」

「……っ」

「うふふ。そうよねー、健康な男の子なら、好きな子ぐらいいるわよねー。ねえねえ、誰だれなの? おばさんにだけ教えてよ」

「え、えっと……」

「もしかして──タッくんは長い間、その子に片思いしてたりするの?」

「──っ!?」

 カマをかけてみると、かえってきたのはわかりやすい反応。

 やっぱり!

 これ、絶対美み羽うのことでしょ!

 やっぱりタッくんは……うちの娘むすめのことが好きだったのね!

 きゃーっ、すごいすごい! なんかもう、すごくテンション上がっちゃう!

「今まで誰だれとも付き合わなかったのも、その子のことが好きだったからなの?」

「えっと……そ、そう、ですね」

 恥はずかしそうに、でもしっかりと頷うなずくタッくん。

「俺おれ……ずっと、その人のことが好きで……その人以外と、付き合うとか全然考えられなくて」

 すごいっ。

 めっちゃ純愛だわ。

 ああ、どうしよ。聞いてるだけで胸がキュンキュンしてくる!

「こ、告白しようとか、思わなかったの?」

「……め、迷めい惑わくになったら、やだな、って思って。あと、今の関係性が壊こわれることも怖こわかったし──それに」

「それに?」

「年ねん齢れい差とかが、ちょっと気になって……いや、俺おれの方は全然気にしてないんですけど、もしかしたらその人の方が気にしちゃうのかな、って」

 年ねん齢れい差……ああ、なるほど。

 美み羽うとタッくんって、五歳さい違ちがうからね。学生同士の恋れん愛あいで、五歳さい差さというのは意外と大きいのかもしれない。

「大だい丈じよう夫ぶよ、タッくん」

 私は言う。

「愛があれば、年の差なんて関係ないわ」

「綾あや子こさん……」

「告白する前から諦あきらめるなんて、つまらないわよ? 相手に想おもいを伝えなきゃ、なんにも始まらない。それに、モタモタしてたら他の男に取られちゃうかもしれないでしょ? それでもいいの?」

「それは……い、嫌いやです」

「だったら答えは一つよ、タッくん」

 酔よっ払ぱらったせいなのか、かなり知った風なことを言ってしまう。タッくんはまだ表情に迷いや葛かつ藤とうを滲にじませていて──だから、私は言う。

 彼かれの恋こいを──全力で応おう援えんする。

「自分に自信を持って。大だい丈じよう夫ぶよ。タッくんなら、きっと大だい丈じよう夫ぶ。あなたが格好よくて優やさしくて素す敵てきな男の子だってこと、私はちゃーんとわかってるから。だから……勇気を出して一歩踏ふみ出だしてみたら?」

「勇気を……──っ!」

 直後。

 タッくんが、勢いよく立ち上がった。

 情熱を秘めた目で──迷いも葛かつ藤とうも全て振ふり払はらったような眼まな差ざしで、まっすぐ私を見つめてくる。

「あ、綾あや子こさん……!」

 緊きん張ちようからなのか声はやや上ずっていたが、それでも真しん剣けんさは痛いぐらいに伝わってきた。

「俺おれ……ずっと、ずっと綾あや子こさんに、言いたいことがあったんです」

「わ、私に?」

 私にって、どういうことだろう?

 あっ。そうか。

 つまり──娘むすめさんを僕ぼくにください、的なやつね!

 ははーん。娘むすめに告白する前に、まずは母親である私に話を通しておこうってわけね。なるほどなるほど。律りち儀ぎなタッくんらしいわ。

 いいわよいいわよ。返事は即そつ決けつでオッケーだから。むしろこちらから頭下げてお願いしますって感じ。

「……本当はもう少し経たってから……就職して、きちんと自分で金を稼かせげるようになってから、言うつもりでした。でも、やっぱり今言います。もう、我が慢まんできないし……それにモタモタしてるせいで他の男に取られるのだけは、絶対に嫌いやだから……!」

 そして。

 タッくんは言う。

 不安に揺ゆれる瞳ひとみで、でも覚かく悟ごを決めた男らしい顔をして、言う。

 私わたし達たちの関係を、決定的に変えてしまう言葉を──


「綾あや子こさん。俺おれ、ずっと、あなたのことが好きでした」


「………………」

 ………………。

 …………。

 ……。

 え?

 あれ……? 聞き間ま違ちがいかしら?

「タ、タッくん……? や、やだもう、酔よっ払ぱらっちゃってるの? ま、間ま違ちがってるわよ。大事なところを、思い切り間ま違ちがえちゃってる」

「え……。ま、間ま違ちがってる?」

「だって、あなた今……わ、私のことを、好きって……」

「……? なにも、間ま違ちがってないですけど」

 真顔で言うタッくん。

 うん? え……あれ? ええ?

 ちょ、ちょっと待って。ちょっと待って……え? え? え?

 軽いパニックになってしまう私を無視して、タッくんは真しん剣けんな眼まな差ざしのまま言葉を続けた。

「俺おれが好きなのは……綾あや子こさんですよ。ずっと……十年前から、ずっと、あなたのことだけが、大好きです」

「…………」

 酔よいが──一気に冷めた気がした。

 それなのになぜか体中が熱くなる。男の人から面と向かって『大好き』なんて言われたの、初めてかもしれない。心臓は早はや鐘がねを打ち、思考回路はオーバーヒートを起こしたみたいに働かなくなる。

 なにこれ。どういう状じよう況きよう? 意味がわからない。

 混乱の極致となった私は──心の中でこう叫さけんだ。


 娘むすめじゃなくて私ママが好きなの!?

第二章 告白と困惑


    ♥


 翌日は──寝ね坊ぼうした。

「……んー……あー……七時半か……って、えええええっ!?」

 枕まくら元もとのスマホに手を伸のばし、その時刻を見て仰ぎよう天てんする。ベッドから飛び起きて、大おお慌あわてで階段を降りていった。

 まずい。まず過ぎる。

 主婦の起きる時間が七時半って、いろいろ終わってる。

 七時半って──娘むすめが家を出なきゃいけない時間だもん!

「ああ~~……どうしよ、どうしよ。朝ご飯に、お弁当に……ああ違ちがう、その前に美み羽う起こさなきゃ──」

「──あ。おはよう、ママ」

 絶望的な気分で階段を降り終わると、ちょうど美み羽うがリビングから出てきたところだった。

「やっと起きたんだ」

「……美み羽う。ご、ごめんね、今すぐ朝ご飯作るから……」

「大だい丈じよう夫ぶだよ。適当にシリアル食べたから」

 平然と言う美み羽う。すでに朝飯は済ませていたらしい。

 改めて見てみれば、その格好はすでに制服姿。髪かみ型がたも整っているし、肩かたにはスクール鞄かばんも提さげている。

 今すぐにでも家を出られそうな格好だった。

「昨日、早めに寝ねたから早く目が覚めちゃったんだよねー。ああ、お昼は適当に買って食べるから、心配しなくていいよ」

「……そう。ごめんね、明日からはちゃんと作るから」

「ううん、別にー。てか珍めずらしいね、ママが寝ね坊ぼうなんて。昨日、タク兄とそんなに遅おそくまで飲んでたの?」

「……っ!?」

 タッくんの名前が出た瞬しゆん間かん、ぎくり、と思い切り身を強こわばらせてしまう。寝ねぼけていた頭が、一気に覚かく醒せいしたような気がした。

「え、えっと……どど、どうだったかしらねー……」

 自分でも笑えるぐらいに声が震ふるえて、目が泳ぎまくってしまう。

 別に、遅おそくまで飲んでいたわけではない。

 ベッドに入った時間は、いつもと変わらぬ十一時ぐらい。

 ただ──そこから全然眠ねむれなかった。

 布ふ団とんの中で、悶もん々もんと懊おう悩のうし続けてしまった。

 ──俺おれが好きなのは、綾あや子こさんですよ。

 寝ねる前にされた衝しよう撃げきの告白が、あまりにも真しん剣けんな告白が、いつまでも頭の中でぐるぐる回っていた──

「……どうしたのママ。顔真っ赤だけど、大だい丈じよう夫ぶ?」

「ええっ!?」

 慌あわてて頰ほおに触ふれてみると、自分でもびっくりするぐらい顔が熱くなっていた。

「熱でもあるんじゃないの? 体温計、持ってこようか?」

「だ、大だい丈じよう夫ぶ! 本当に大だい丈じよう夫ぶだから!」

「ならいいんだけど──あっ。タク兄、おはよー」

 昨夜の混乱を引きずりまくっていた頭が、一いつ瞬しゆんで我に返る。いつの間にかチャイムが鳴って、娘むすめの幼おさな馴な染じみがいつも通りに迎むかえに来ていたらしい。

「ああ。おはよう、美み羽う」

 それからタッくんは、私の方を向く。

「……お、おはようございます、綾あや子こさん」

 声はわかりやすく緊きん張ちようしていて、表情もぎこちなかった。気まずそうというか、恥はずかしそうというか。

 そして私の方も──頭が真っ白になる気分を味わっていた。ほとんど毎日見ている顔なのに、今はその顔が直視できない。

「お、おお、おはようタッくんっ……あっ!?」

 今の自分の格好を思い出し、羞しゆう恥ち心しんが一気にこみ上げた。寝ね起おきのパジャマ姿で、髪かみもボサボサ。慌あわてて手て櫛ぐしで直そうと試みる。

「ご、ごめんね! 私、こんな、見苦しい格好で……!」

「……なに動どう揺ようしてんのママ? パジャマぐらい、タク兄にはしょっちゅう見せてるじゃん」

 美み羽うから冷めたツッコミを食らい、ハッとする。うちに泊とまりに来たときとかに、パジャマ姿なんて何度も見せている。すっぴんも見せてるし、なんならタッくんに起こしてもらったこともあるんだった。

 う、うわぁ~~、恥はずかしいっ!

 なにやってるの私!?

 なんでこんな思春期の乙女おとめみたいな反応してるの!?

 パジャマ姿より、パジャマ姿を恥はずかしいと思ってしまった自分が恥はずかしい。

 これじゃ、まるで。

 タッくんのことを、急に男として意識し出したみたい──

「──美み羽う。悪いんだけど、先、行っててくれるか?」

 困こん惑わくし混乱する私をよそに、タッくんは言った。

「俺おれ、綾あや子こさんにちょっと話があるから」

「うん? まあ、別にいいけど」

 美み羽うは不思議そうな顔をしたが、特に追及することもなく、靴くつを履はいて一人で玄げん関かんから出て行った。

 ドアが閉まる。

 二人きりになった瞬しゆん間かん、言いようのない緊きん張ちよう感が場を満たした。

 少しの沈ちん黙もくがあってから、

「寝ね坊ぼう、したんですか?」

 と、タッくんが口を開いた。

「珍めずらしいですね、綾あや子こさんが寝ね坊ぼうなんて」

「う、うん……ちょっと、眠ねむれなくて」

「……俺おれも、昨日は全然眠ねむれなかったです」

 そう言って、タッくんはまっすぐ私を見つめてきた。

 昨日と同じ、怖こわいぐらいに真しん剣けんな目つき。

「綾あや子こさん、俺おれ──」

「だ、大だい丈じよう夫ぶ! わかってる、わかってるから!」

 無意識のうちに、私は声を上げていた。

 相手の言葉を遮さえぎるように──言葉の続きを拒きよ絶ぜつするように。

「き、昨日のことは、聞かなかったことにするから!」

「え……」

「だから……タッくんも全然、気にしなくていいからね。ア、アレでしょ? 酔よっ払ぱらってたのよね? だからなんか、こう……ちょっと変な気分になっちゃったってだけなんでしょ? わかってる……わかってるから」

「綾あや子こさん……俺おれは」

「わ、忘れましょうね。お互たがい、昨日のことは全部忘れましょう。だ、だいじょぶだいじょぶ……。私もね、もういい年のおばさんだからね。お酒の席での話を真に受けるほど子供じゃないっていうか──」

「綾あや子こさん!」

 張り上げた硬かたい声に、私は身を竦すくませてしまう。

「なんで、そんなこと言うんですか……」

 タッくんは──心外そうな顔をしていた。怒おこっているようで、それでいて悲しんでもいるような、そんな顔。

「昨日、俺おれ……確かに、ちょっと酔よっ払ぱらって、おかしなテンションになってました。酔よった勢いで言ったみたいなとこも……正直あります」

 でも、とタッくんは言う。

「言ったことは全部本当のことです」

「……っ」

「俺おれはずっと、綾あや子こさんのことが好きでした。ずっと、ずっと……」

 タッくんは言う。

 歯止めをなくしたみたいに、言葉を重ねる。

 私への想おもいを伝えるための言葉を──

「綾あや子こさんからしたら、俺おれなんてスネかじりのガキでしかないと思うし、何度も諦あきらめようかと思ったんですけど……それでも、やっぱり好きなんです。真しん剣けんに交際したいと思ってます」

「タッくん……」

「返事は今すぐじゃなくてもいいんで……。でも……考えてもらえたら、嬉うれしいです」

 それじゃあ──行ってきます。

 と言って。

 彼かれは玄げん関かんから去って行った。

 私は、へなへなとその場にへたり込こんでしまう。

「……本気、なんだ」

 冗じよう談だんではなかったらしい。昨日の告白が冗じよう談だんだったら──酔よっ払ぱらった勢いのギャグみたいなものだったら、それはそれで心外ではあったけれど、でも正直、そうあって欲ほしいという気持ちも少しはあった。

 だから──ほとんど無意識のうちに、冗じよう談だんで済まそうとしてしまったんだろう。

 お互たがい忘れましょう、なんて言って。

 でも。

 彼かれの誠実さは、彼かれの情熱は──私に小こ狡ずるい逃とう避ひを許さなかった。

 背水の覚かく悟ごを決めたような真しん摯しさを前に、私は向き合わざるを得なくなってしまった。

 左沢あてらざわ巧たくみの、本気の恋こい心ごころと──

「タッくん……本気、私のことが好きなんだ……ずっとずっと、私のことが好きで、片思いしてた……うう~、あ~、うわ~、あ~~~っ」

 私は頭を抱かかえて悶もん絶ぜつしてしまう。玄げん関かん先でパジャマという大変恥はずかしい有あり様さまだったけれど、でももう、わけがわからなくて頭がいっぱいいっぱいになっていた。

「……ど、どうしたらいいの~~?」


    ♠


「巧たくみ、起きなよ」

 肩かたを揺ゆさぶられて、俺おれはハッと目を覚ます。

 経済学部講義棟とう102号室。

 学部必修の近代経済学──その講義中に、俺おれはいつの間にか眠ねむっていたらしい。慌あわてて顔を上げるも、すでに教授の姿はなく、生徒達たちも席から立ち上がっていた。

「やべ……」

「要点は大体メモ取っといたけど、コピーする?」

「あー、悪い。助かる」

「いいよ。巧たくみにはいつも世話になってるし」

 聡さと也やはそう言って、かわいらしく微笑ほほえむ。手て渡わたされたレジュメには、かわいらしい文字で講義の要点が記されてあった。

 梨りん郷ごう聡さと也や。

 背は低く、体つきは華きや奢しや。顔立ちは中学生でも通用しそうなぐらいに幼く、長く伸のばした髪かみは後ろで一つに束ねてある。

 とても俺おれと同い年とは思えない。

 服装は実にオシャレな感じで、アクセサリーなどの小物にもセンスが光る。男なのに──とか言うと前時代的かもしれないが、手には色の濃こいマニキュアも塗ぬってあった。

 端たん的てきに言えば、かわいい顔でファッショナブルなイケメン、となる。

 大学で知り合った同じ学部の友人で、今じゃゼミも一いつ緒しよ。選んでいる講義もほとんど同じだから、なにかと一いつ緒しよに行動することが多い。

「でも珍めずらしいね。巧たくみが居い眠ねむりなんて」

「昨日、あんまり寝ねてなくてな」

「ふーん? そんな徹てつ夜やでやるような課題、なんかあったっけ?」

「いや、課題ってわけじゃなくてさ」

「となると……また、お隣となりのママのことで悩なやんでたの?」

「……っ」

「お。図星みたいだね」

 聡さと也やは幼い顔を歪ゆがめて、ニヤニヤと意地の悪い笑えみを浮うかべる。

「巧たくみは本当にわかりやすいなあ。浮うわ気きとか絶対できなそう」

「……うるせえよ」

 毒づくように言いつつ、俺おれ達たちは講義室を出て学食へと向かった。

 昼時の学食は混雑していた。

 食券を購こう入にゆうして列に並ぶ。俺おれはカレー、聡さと也やはロコモコ丼どんを注文し、空いている席を探して座すわった。

「──え。噓うそ……告っちゃったの? マジで?」

 話を聞いた聡さと也やは、目を丸くして仰ぎよう天てんした。

 綾あや子こさんへの想おもいは──俺おれがこの十年隣となりの家のお母さんに恋こいをしていることは、こいつにはすでに話している。

 以前、二人で宅飲みをしたとき、うっかり口が滑すべってしまったのだ。

「へー。へぇー……うわー、どうしよ。なんかウケる」

「……ウケるなよ。こっちは真しん剣けんなんだから」

「わかってるって。でも、悪いけどテンション上がっちゃうよ。大親友のきみが、とうとう十年物の恋こいを一歩前に進めたんだから」

 興奮を隠かくし切れない様子の聡さと也や。畜ちく生しよう。他人ひと事ごとだと思いやがって。

 はあ。

 なんだか──未いまだに信じられない。

 俺おれが告白できたなんて、なんだか噓うそみたいだ。思い返すだけで恥はずかしさで死にそうになってくる。

 後こう悔かいはない──と言えたら格好いいのだけれど、正直、後こう悔かいはある。だいぶある。かなりある。昨日の夜、ベッドに入ってからずっと悶もだえ苦しんでいた。何度も何度も時間を巻まき戻もどしたい気持ちになった。

 俺おれは昨日、踏ふみ越こえたら二度と戻もどれないラインを、踏ふみ越こえてしまったのだ──

「本当に好きだったんだね」

 聡さと也やはどこか遠い目をして、感心したように言った。

「なんだよ、信じてなかったのか?」

「いやまあ、疑ってたわけじゃないけど……どっか信じられない気持ちはあったよ。十歳さい年上の、隣となりに住む幼おさな馴な染じみのお母さんに、十年片思いをしているなんてさ」

「…………」

 それはまあ──そうなんだろう。

 幼おさな馴な染じみの母親に恋こいをしているなんて、この日本国の常識に当てはめてしまえば、おそらく普ふ通つうのことではない。

 そんなことはわかっている。

 重々承知した上で──俺おれは十年、綾あや子こさんを好きで居続けた。

 付き合いたいと、思い続けてきた。

「なんだっけか? 十歳さいのとき一いつ緒しよにお風ふ呂ろに入って、そこで綾あや子こさんの裸はだかを見たのがきっかけなんだっけか?」

「ち、ちげえよ。人を変態みたいに言うな」

「でもお風ふ呂ろには入ったことあるんでしょ?」

「…………」

 あるけど。

 一いつ緒しよに入って、がっつり裸はだか見ちゃったけど。

 綾あや子こさんの方も、俺おれが十歳さいだと思って全く警けい戒かいしてなかったから全然隠かくす素そ振ぶりも見せなくて……おかげで見たらいけないところまで全部見てしまった。

「十年前の裸はだかが忘れられなくて未いまだに恋こいしてるなんて……巧たくみもなかなかに変態だね。ちょいとストーカーチックだ」

「……うるせえよ。別に混浴だけがきっかけじゃねえっつーの」

 まあ──一いつ緒しよに風ふ呂ろ入ったときに急激に女性として意識してしまったというのは正直否定できないのが悲しいけれど。

 でも、それだけじゃない。

 それだけでは片付けられない。

 十年の片思いは、とても一言で語れるものではない。

「まあ、ある意味すごいよ。他の女には目もくれず、十年間一人の女性に片思いしてたわけだからなあ。変態と純愛ってのは、案外、紙かみ一ひと重えなのかもしれないね」

 どこか悟さとったような口調で、聡さと也やは続ける。

「友達の若くて美人のお母さんが魅み力りよく的に見えるっていうのは、まあわからなくもないよ。自分のお母さんなんておばさんにしか見えないのに、他人のお母さんは妙みように色っぽく見えたりした経験は、正直僕ぼくもある──でも、そんなのって結局、子供時代特有の幻げん想そうだったりするんだよね。普ふ通つうはすぐに目が覚める」

「…………」

「でも巧たくみは、その幻げん想そうを二十歳はたちになるまでずっと抱いだき続けてきたわけだ。それだけ長い間熟成させとけば、幻げん想そうも本物になっちゃうんだろうね」

 感心してるのかバカにしてるのか判断に困るような口調で言いながら、聡さと也やは俺おれの頭に手を伸のばしてきた。

「なんにしても、気持ちを伝えられてよかったね。告白、お疲つかれ様さま。偉えらい偉えらい。褒ほめてあげよう」

「……うっせ。やめろ」

 撫なでようとしてきた手を振ふり払はらう。

「でもまあ、酔よった勢いでの告白ってのは、ちょーっとダサいけどね」

「うぐっ……や、やっぱ、そうかな……」

 一番の後こう悔かいはそこだ。

 告白するにしても、シチュエーションってものがあるだろう。

「……あ、綾あや子こさんのせいでもあるんだよ。向こうから恋れん愛あい指導みたいなことしてきて、『好きな子いるなら想おもいを伝えなきゃダメ』とか言ってくるから……なんか気持ちが一気に盛り上がっちゃって」

「そりゃ、向こうは巧たくみの惚ほれてる相手が自分だなんて、夢にも思わなかっただろうからね。本当に驚おどろいたと思うよ」

「……そう、なんだろうな」

 昨晩や今朝の様子を見れば、綾あや子こさんの驚きよう愕がくや動どう揺ようは痛いぐらいに伝わってくる。

 良くも悪くも、俺おれが好意を寄せていたことには、全く気づいていなかったようだ。

「なんか……申し訳なくなってくるよ。俺おれが告白なんかしたせいで、たぶん面めん倒どうな思いさせちまってるんだから」

「告白するって、そういうことだからね」

 聡さと也やは知った風に言う。

「勇気を出して思いを言葉にして告白する……世間一いつ般ぱんじゃ美徳みたいに扱あつかわれてるけど、実際には自分の都合で人間関係に爆ばく弾だんを落としてるだけだから。上手うまくいけばいいけど、失敗したら巻まき込こみ事故みたいなものだよ。告白する側だけじゃなくて、断る側だってストレスは溜たまるし、人によっちゃ断ることで傷ついてしまう」

 容よう赦しやない物言いに、果てしなく落おち込こむ。

 全くもって聡さと也やの言う通りだ。

 俺おれが落としたのは、大きな大きな爆ばく弾だんだ。既き存そんの人間関係を原型を留とどめぬほどに爆ばく散さんさせてしまう、告白という綺き麗れいな言葉で飾かざり立たてただけの殺傷兵器──

 俺おれと綾あや子こさんはもう、元の関係には戻もどれないだろう。

 告白を断られて『今まで通りの関係でいましょう』と言われたとしても、今まで通りに微ほほ笑えみかけてくれることは──単なる娘むすめの幼おさな馴な染じみとして俺おれに接してくれることは、もう二度とないのだろう。

 俺おれは俺おれだけの都合で、十年かけて積み上げてきた二人の関係を粉々に壊こわしてしまった──

「巧たくみの未来がどうなるかは、綾あや子こさんの返事次し第だいってわけか」

「ああ……」

 返事はまだもらっていない。

 というか、俺おれが怖こわがって結論を引き延ばした、という方が正確だろう。昨日も今朝も、返事は聞かないまま逃にげてしまった。「返事は今すぐじゃなくてもいい」とか、余よ裕ゆうがある風なこと言ってしまったが、なんてことはない、ただ答えを聞くのが怖こわかっただけの話だ。

 でも、いつまでも引き延ばしてもいられない。

 俺おれは深く息を吐はき出だす。

 酔よった勢いからの衝しよう動どう的な告白──後こう悔かいしていないと言えば噓うそになるが、しかしどこか覚かく悟ごしていた部分はあった。

 遅おそかれ早はやかれ、結局は今の状態になっていたのだと思う。

 そろそろ限界になっていた。

 片思いをし続けることにも──そして、相手が俺おれのことをまるで意識してくれないことも。

 惚ほれている女から男扱あつかいされず、子こ供ども扱あつかいされ続けることが、虚むなしくて切なくて悔くやしくて悲しくて、我が慢まんできなくなっていたのだ。


    ♥


 その日は、仕事も家事もほとんど手につかなかった。

 なにかに集中して忘れようとしても、どうしても頭から消えてくれない。タッくんの告白が脳のう裏りに蘇よみがえっては、頭が真っ白になってなにも考えられなくなる。

 男の人に告白されたのなんて、何年ぶりだろう?

 学生時代は、何度か告白されたこともあったけれど──いや。

 あんなにも真面目で真しん剣けんな告白は、人生で初めてな気がする。

 タッくんの想おもいが痛いぐらいに伝わってきて──だからこそ、頭がのぼせそうになって、困り果ててしまう。

「ただいまー。ママ、今日のご飯な──って、なにこれ?」

 いつの間にか帰ってきた美み羽うが、惨さん憺たんたる様子のリビングを見て驚おどろきの声を上げる。洗せん濯たく物は畳たたみ途と中ちゆう、掃そう除じ機は出しっぱなし、ノートPCや資料も出しっぱなし。なにもかもが中ちゆう途と半はん端ぱな状態で止まっている。

 ゴチャゴチャして散らかった部屋。

 まるで、今の私の心みたい──

「どうしたの、ママ? なにこの状じよう況きよう?」

「……ああ、おかえり、美み羽う。やだ……もうこんな時間」

 ソファに体を預けていた私は、体を引きずるように立ち上がる。時計を見ればすでに五時過ぎ。ちょっとだけ休きゆう憩けいするつもりだったのに、がっつり三時間ぐらい悶もん々もんと考かんがえ込こんでしまっていたらしい。

「ごめんね、すぐに片付けるから。あと……今日のご飯、外食でもいい? 全然、準備してなくて」

「それはいいけど……大だい丈じよう夫ぶなの、ママ? 具合悪いの? なんか朝から様子おかしいよ」

「だ、大だい丈じよう夫ぶよ。全然、平気だから……」

 言い訳して、途と中ちゆうだった洗せん濯たく物を片付け始める。

「……タク兄となんかあったの?」

 怪け訝げんそうな顔で言う美み羽う。私はギョッとして、抱かかえていた洗せん濯たく物を全部落としてしまう。

「えっ……な、な、なんで……?」

「今朝、二人とも様子おかしかったし……。昨日の夜、私が寝ねてからなにかあったの?」

「な、ななっ、なんにもないわよ! あるわけないじゃない! あはは、おかしなこと言うわね、この子は……あは、あははー」

 必死に誤ご魔ま化かしながら、私は冷蔵庫に飲み物を取りに行く。

 緊きん張ちようと焦あせりで、もう喉のどがカラカラだった。

「まさか──」

 美み羽うは言う。

 どうということもない口調で、しかし衝しよう撃げき的なことを。

「タク兄に告白でもされたの?」

「──っ!? ──痛っ!」

 驚きよう愕がく、からの衝しよう突とつ。

 動どう揺ようのあまりブレーキを忘れた私は、冷蔵庫に頭をぶつけてしまう。

 ゴン、といい音がした。

「~~っ! い、いった~い……」

「やっぱりそうなんだ」

 額を押さえて蹲うずくまる私に、美み羽うは溜ため息いき交じりの声で言った。

「ち、ちち、ちがっ、違ちがうのよ! 今のは、動どう揺ようしたわけじゃなくて──」

「そっかそっか。やーっと告白したのか」

「──頭に衝しよう撃げきを与あたえてみる健康法で……え?」

「いやー、ほんと長かったなあ」

「ちょ、ちょっと待ちなさい、美み羽う……。ちょ、ちょっと待ってね。えっと、あれ? あの、だから……」

 大混乱に陥おちいってしまう私。

 待って待って。なにこの、美み羽うの冷めた態度? 私との温度差がすごいんだけど。なんで驚おどろいてないの? タッくんが私に告白したのよ! 私のこと好きだとか言ってたのよ!

 大事件でしょ、これは!?

 もしかして──

「……あなた、知ってたの?」

「知ってたって……タク兄がママに惚ほれてたってこと?」

「う、うん……」

 は、恥はずかしいぃ!

 改めて言われると、すっごく恥はずかしい!

 娘むすめに言われてるってのが、またさらに恥はずかしい!

「知ってたっていうか、まあ気づくでしょ。タク兄、わかりやすかったし。ま、肝かん心じんのママはさーっぱり気づいてなかったみたいだけど。それどころか、見けん当とう違ちがいな勘かん違ちがいしてたよね。タク兄が私に惚ほれてるとか」

「……っ!」

「まったく、鈍どん感かんっていうか、察しが悪いっていうか」

「だ、だってぇ……」

 娘むすめからジト目で睨にらまれて、私は必死に反論する。

「そんなの……わかるわけないでしょ? 私とタッくん、十歳さい以上も年が違ちがうのよ? タッくんからしたら、私なんてもうおばさんでしょ……。ただの、近所の、おばちゃん……」

 ……自分で言ってて悲しくなってきた。

 でも事実だ。

 今の私は、若い子から見たら立派なおばさんなんだと思う。自分だって二十歳はたちぐらいの頃ころは、三十路アラサー=おばさんだと思っていた。

 だから──夢にも思わなかった。

 自分がまさか、十以上年下の子の恋れん愛あい対象になっていたなんて。

「まあ私からしたら、ママなんてただのおばさんだけど、タク兄から見たらそうじゃなかったってことでしょ」

 フォローのようでフォローじゃないことを言う美み羽うだった。

「年ねん齢れい差だって、愛があれば関係ないんじゃないの?」

「それは……」

 私もタッくんに言ったけど、その台詞せりふ。

 勢い任せで言った台詞せりふが、まさか翻ひるがえって自分に刺ささってくるなんて。

「……私、タッくんはてっきり、美み羽うのことが好きなんだとばかり」

「何っ回も言ったけど、それはママの勘かん違ちがいだってば」

「だってタッくん、毎日あなたのこと迎むかえに来てくれるし……」

「ママの顔が見たいからでしょ」

「あなたの受験勉強だって、すごく熱心に教えてくれて……」

「ママが頼たのんだからでしょ」

「……わ、私が酷ひどい風か邪ぜで寝ね込こんだときも、美み羽うの負担を軽くするために不ふ眠みん不休で私のことを看病してくれたりして……」

「それはもう、どう考えてもママのためでしょ」

「…………」

 淡たん々たんと指し摘てきされ、押おし黙だまる他なかった。

 あれ。ちょっと待って。

 もしかして……今まで私が『美み羽うへの好意』を感じていた行動って、実は全部『私への好意』だったってこと?

「……私が好きだから毎朝うちに来て、私が好きだから美み羽うの受験にも協力してくれて、風か邪ぜをひいたら看病もしてくれて……なに、それ? タッくんって、私のこと大好きなの!?」

「大好きなんでしょ」

「えー……うー、あー、うわぁ~~ん……」

 私はもう、語ご彙い力を失って蹲うずくまる他なかった。顔が信じられないぐらい熱い。どうして。未いまだにわかんない。なんで私みたいなおばさんが、二十歳はたちの子にここまで愛されてるの?

「で、どうするの?」

 羞しゆう恥ち心しんで殺されそうになってる私に、美み羽うが問うてくる。

「どうするって……」

「タク兄と付き合うの? 付き合わないの?」

「そ、そんなこと、急に言われても……」

「言っとくけど、私に気を遣つかう必要はないからね」

 軽く言うと、美み羽うはどっかりとソファに腰こし掛かけた。

「私ももう十五歳さいだし、親の交際相手にとやかく言ったりするつもりはないよ。なんならむしろ──応おう援えんしたいぐらい」

「お、応おう援えん……?」

「うん。ママとタク兄が結けつ婚こんしたら、私は嬉うれしいかな」

「結けつ婚こん……!? な、なに言ってるのよ!」

 告白されたことで頭がいっぱいいっぱいで、そこから先のことは全く考えられずにいた。

 結けつ婚こん。

 私とタッくんが結けつ婚こんって……ああ、ダメダメ。こんなこと考えちゃダメよ!

「私、タク兄のこと、普ふ通つうに好きだし」

 パニックに陥おちいる私をよそに、美み羽うはどこか楽しげな口調で、とんでもないことをどんどん言ってくる。

「男としてはタイプじゃないけど、人としては好きだし、素す直なおに尊敬してるとこもあるよ。私、タク兄のことなら『パパ』って呼べるね。いいよねー、あんな若いパパがいたら、最高かも」

「……い、いい加減にしなさい、美み羽う。大人をからかうんじゃありません」

「別にからかってるつもりはないよ」

 そこで美み羽うは、かすかに目を伏ふせ、小さく息を吐はいた。

 今までの軽けい薄はくな雰ふん囲い気きが消え、口調に真しん剣けん味が増す。

「私もさ……罪悪感っていうの? なんかそういうの、少しは感じてるんだよね。私みたいな『他人』のせいで、ママの二十代を犠ぎ牲せいにしちゃったこと」

 ハッ、と息を吞のむ。

 心臓が締しめ付つけられるように痛んだ気がした。

「ママみたいな美人が誰だれとも交際してないのって、言ってみれば私のせいでしょ? 私のために、自分の人生を犠ぎ牲せいに──」

「──美み羽う。なんてこと言うの」

 私は言う。強く言う。言わなければならない。

 今の言葉だけは、否定しなきゃいけない。

「私はあなたのことを『他人』だなんて思ってない。それに……あなたのせいで自分の人生が犠ぎ牲せいになったなんて、全く思ってないわ。むしろ──逆よ。あなたが、私にどれだけのものをくれたか……」

 声には熱が籠こもってしまう。

 段々と目め頭がしらが熱くなり、涙なみだが零こぼれそうになった。

「ねえ、美み羽う……覚えてる? あなたが私のこと、初めて『ママ』って呼んでくれた日のこと……? そう、あれは、あなたを引き取ってから──」

「あー、いいからいいから。そういうの、いいから」

 美み羽うは鬱うつ陶とうしそうに手を振ふった。

 感情が高ぶる私と反比例したかのように、すっごく冷めた顔で。

「いらないから。そういう、ありがちな感動話は」

「んなっ!?」

 ありがちな感動話ってなに!?

 今、すっごくいいこと話そうと思ったのに! 最高の思い出話で感動の嵐あらしを巻き起こして、最後は母娘おやこの熱ねつ烈れつなハグをする予定だったのに!

「ママ、最近お酒飲むといっつもその話して泣き始めるんだもん。いい加減、聞き飽あきたって」

「う……」

「まあ、犠ぎ牲せいって言葉のチョイスは悪かったかもね。犠ぎ牲せいとまではいかなくてもさ、私に気を遣つかって、恋れん愛あいとかそういうの、遠えん慮りよしてた感じではあったんでしょ?」

「そ、それは……」

 まあ。

 そういう部分は、やっぱりあるのだろう。

 元々私は恋れん愛あいや男探しに積極的なタイプではないので、美み羽うがいなかったところで誰だれかいい人を見つけられたかどうかはわからないけれど──でも、美み羽うの存在が、ただでさえ奥おく手てな私にさらにブレーキをかけていた部分はあったのかもしれない。

「ママ。私はさ、ママのこと、本当のママだと思ってるんだよね」

 美み羽うは言う。

 すごく感動的な台詞せりふなんだけど、なんだか割とあっさり目のテンションで。

「ママだって、私のことを本当の娘むすめみたいに思ってくれてるんでしょ?」

「う、うん……」

「だったらわかるでしょ? ママが私に『幸せになって欲ほしい』と思うのと同じぐらい、私だってママに『幸せになって欲ほしい』って思ってるの」

「…………」

「私のこと一番に考えてくれるのは嬉うれしいけどさ、もう少し、自分の人生のことも考えてみたら?」

「…………」

 私はなにも言えなくなる。

 なんというか……論破された気分。

 これ以上ない正論をぶつけられ、ぐうの音も出ない。

「お、大人になったのね、美み羽う……」

 負まけ惜おしみのように、こう言うしかなかった。

 十五歳さいになった娘むすめは、私の予想以上に成長し、達観しているようだった。嬉うれしいやら情けないやら、親として大変複雑な気分である。

第三章 日常と変化


    ♥


 たとえば誰だれかに告白されたとして──「好きです。付き合ってください」と言われたとして、そこからさらに「返事は今すぐじゃなくてもいい」とか言われたとして。

 その場合、まあたぶん、多くの人がしばらくはその相手と会わないようにするんじゃないかと思う。

 返事も出さないうちに相手に接せつ触しよくするのは不誠実な気がするし……なによりシンプルに気まずいし。

 自分の中できちんと答えが出せるまでは、極力相手には会わないようにするのが、告白された側の礼れい儀ぎというものじゃないだろうか。

 しかし。

 世の中、そうそう都合よく済むパターンばかりじゃない。告白相手が日常的に顔を合わせる相手だった場合、お互たがいに気まずさや緊きん張ちようを抱いだきながら、これまで通りの生活をなぞらなければならない。

 私とタッくんも、まさにそのパターン。

 なんと言っても──お隣となりさんだもん。

 告白の結果がどうであれ、今後の人生でもなにかと接点が多くなることだろう。

 ましてタッくんは今、毎朝娘むすめを迎むかえに来てくれるし、そして私は今、彼かれに娘むすめの家庭教師を頼たのんだりもしている。

 そして今日は。

 タッくんが娘むすめの家庭教師に来る日だった。

 ピンポーン、と。

 夕方五時前──約束の時間の少し前に、玄げん関かんのチャイムが鳴った。

「え……あ、はーい」

 返事をする私は──シャワー中だった。

 お風ふ呂ろ掃そう除じ中にカランの切きり替かえを間ま違ちがえて、盛せい大だいに頭からシャワーの水をかぶってしまい、ああもう面めん倒どう臭くさいシャワー浴びちゃお、となった感じ。

「噓うそ……もう、来ちゃったの?」

 タッくんが来る前には上がるつもりだったのに……なんでこういう日に限って少し早く来ちゃうのかしら?

 玄げん関かんの方から「すみませーん」と、聞き慣れた声がする。

 やっぱりタッくんで間ま違ちがいないらしい。

「……美み羽う、ちょっと美み羽うっ! 私、出られないから代わりに……って、あっ。そうだった、あの子、買い物行ったんだった……」

 先ほど「ちょっとコンビニに行く」と言って家を出ていたのだった。不運というのは重なるらしい。

 シャワーを止めて、私は改めて考える。

 ど、どうしましょう……?

 あまり待たせてしまうのも悪い。でも、だからって……タオルを巻いただけで出ていくのは恥はずかしいし──あれ?

 そういえば。

 前にも、こんなシチュエーションがあった気がする。

 ちょうど一年前ぐらい。あのときも、私がシャワーを浴びている最中にタッくんがうちにやってきた。

 以前の私は、どうしたんだっけ?



 一年前──

「はーい。いらっしゃい、タッくん」

「あ。どうも……って、あ、綾あや子こさん!? な、なんですか、その格好……!?」

「ごめんなさいね、こんなはしたない格好で……。ちょうどシャワーの途と中ちゆうだったから」

「だからって……ダ、ダメでしょ。タオル巻いただけって……ちゃんと、服着てこなきゃ」

「うふふ。やだもう、タッくんったら。なにをそんなに焦あせってるのよ? もしかして……興奮しちゃった?」

「──っ!? いや、えっと……」

「なんてね。ふふっ。私みたいなおばさんの裸はだかなんて、タッくんみたいな若い子は興味ないわよね」

「そ、それは……」

「……えーっと、タッくん。さすがにご近所様に見られると恥はずかしいから、そろそろ玄げん関かんを閉めてもらえると嬉うれしいんだけど……」

「あっ! す、すみません!」



 そう、そうよ。

 そうなのよ!

 一年前の私は、こんなシチュエーションにもさして動どう揺ようすることもなく、さらっと日常の一コマとして流していた。

 だったら──今日もそうするのが自然よね!

 以前と同じ状じよう況きようなのに、今日になって対応を変えたら──ここでわざわざ服を着て出て行ったりしたら……な、なんか逆に意識しちゃってるみたいよね!

 告白されたことで急激に相手を男として認にん識しきしたみたいになるもんね!

 ならば──やるべきことは一つ。

 私は覚かく悟ごを決め、バスタオルへと手を伸のばした。



「い、い、いらっしゃぁい……」

「あ。どうも──っ!?」

 震ふるえまくりの声で挨あい拶さつを述べながらドアを開けると、タッくんは仰ぎよう天てんの声を上げ、大きくのけぞった。

「あ、綾あや子こさん!? な、なんですか、その格好……!?」

 タッくんの反応は以前とほとんど同じ。真っ赤な顔で思い切り狼狽うろたえている。

 そう、彼かれの反応はまるで変わらない。

 変わってしまったのは、私の方──

「ご、ごごっ、ごめっ! シャ、シャワーが、シャワーでねっ! こんな、はしたない、かっこっ、かっこで……」

 焦しよう燥そうと羞しゆう恥ちで舌が全然回らず、声は不自然に上うわ擦ずってしまう。一年前の態度を真ま似ねようとしても、まるでできない。

 なんで? どうして?

 なんでこんなに──恥はずかしいの?

 素すっ裸ぱだかにバスタオル一つ……いやまあ、恥はずかしいに決まってるわよね。だってタオルの下、すっぽんぽんなんだもん!

 一年前だってそこそこ恥はずかしかったけれど──今の恥はずかしさはその比じゃない。体中が燃えるように熱くて、顔から火が噴ふき出だしそう。

 タッくんの顔を──直視できない。

 まずい。本当にまずい。

 一年前とは違ちがう。

 今の私は──タッくんのことを完全に男として意識してしまっている。相手が自分をどういう目で見ているかわかってしまったから、こんな格好で彼かれの前に立つことが、恥はずかしくて恥はずかしくてたまらない。

 ああ。

 やっぱり失敗だったかも……どう考えても失敗だったかも。

 なにやってるのよ、私……。

 こんなの、完全に変態の行動じゃない……ていうか、あれ? 改めて思い出してみると……前は、さすがにパンツだけは穿はいてたような、さすがにノーパンで玄げん関かんまで行くような痴ち女じよではなかったような。

 あれ。

 もしかして今の私って、いい年こいて死ぬほど恥はずかしいことやってるんじゃ──

「……ダ、ダメですよ、綾あや子こさん……いくらシャワー中だからって、女性がそんな格好で玄げん関かん出てきちゃ……」

 ノーパンの衝しよう撃げきに打ち震ふるえる私に、タッくんは至し極ごく当然の正論をぶつけてきた。

「来客が変な男で、襲おそわれたりしたらどうするんですか?」

「や、やだ……心配しすぎよ、タッくん。美み羽うみたいな若い子ならまだしも、私みたいなおばさんなんて、誰だれも襲おそわな──」

「そんなことないですよ!」

 私の自じ虐ぎやくを遮さえぎるように、タッくんは強く言った。

 それから後ろ手でドアを閉めて、静かな口調で続ける。

「綾あや子こさんは……おばさんじゃないです。すごく綺き麗れいで、女性として、とても魅み力りよく的だと思います。少なくとも……ここに一人、襲おそいたくなるぐらい興奮してる男がいますから」

「……え? や、やだっ、なに言ってるのっ」

「す、すみません。でも、しょうがないじゃないですか。好きな女性が、そんな格好で目の前に立ってるんだから」

「す、好きって……う、ううう……!」

 タッくんは恥はずかしそうな切なそうな目で、まっすぐ私を見つめていた。そんな目で見つめられてしまえば……私はもうわけがわからなくなってしまう。羞しゆう恥ち心しんが沸ふつ騰とうして頭がおかしくなってしまいそう。

「あの、と、とにかく……そういう格好で、玄げん関かん開けるのはもうやめた方がいいと思いますよ」

「わ、わかったから。私だって、誰だれが相手でもこんなことしてるわけじゃないのよ? 相手がタッくんだってわかってるから、こうして──」

「え?」

「……あっ。ちちっ、違ちがうのよ! タッくんをエッチな格好で悩のう殺さつしたいとかそういうことじゃなくてね!」

「だ、大だい丈じよう夫ぶです! わかってますから!」

 大おお騒さわぎとなる私わたし達たち。お互たがいに照れまくりで顔赤らめまくりで、玄げん関かんの室温はかなり上じよう昇しようしていそうだった。

 はあ……なにやってるんだろ、私。

 意地と見み栄えからノーパンで玄げん関かんまで出てきた挙げ句、かなり年下の男の子から普ふ通つうに注意を受けるって……大人として恥はずかし過ぎるわ。

 自己嫌けん悪おに陥おちいる私だったけれど、

「ただいまー」

 そこに追い打ちをかけるみたいに、コンビニに行っていた美み羽うが帰ってきた。片手にアイスが入った袋ふくろを下げている。

「あれ。タク兄、もう来てたんだ──って、ママ? なにその格好?」

「え、えっとね、これは……違ちがうのよ、これは……」

「──ははーん」

 言い訳を探す私に、美み羽うは意地の悪い笑えみを浮うかべた。

「知らないうちに、ずいぶんと関係進んでいたみたいですね、お二人さん」

「え?」

「じゃ、私は先に部屋に戻もどってますので。家庭教師の時間まで、どうぞごゆっくり~。別に今日、授業なしでもいいですよ~」

「え、あっ……ちょ、ちょっと美み羽う!」

 必死に呼びかけるも、私の制止を無視して二階の部屋まで駆かけ上のぼっていった。

「ど、どうしましょ。あの子、変な勘かん違ちがいしたんじゃ」

「……いや、たぶん、事情をわかった上で、勘かん違ちがいした振ふりしてからかってるだけだと思いますよ」

「そ、そっか……」

 ほっと息を吐はく。いやまあ、冷静に考えたらなにも安心できないんだけど。娘むすめにこんなシチュ見られた上にからかわれるって……もはや母親の面めん目ぼくが丸つぶれなんですけど。

「綾あや子こさん、もしかして……俺おれとのこと、美み羽うに話しました?」

「は、話してない……けど、なんか、気づかれちゃった感じ……。元から、その、なんとなく、察してたみたいで」

「あー……そうか。まあ、俺おれ、結構わかりやすかったもんな」

 苦く笑しようするタッくん。

 え? わかりやすかったの? じゃあそのわかりやすさにすら全く気づけなかった私って、どんだけ鈍どん感かんだったの?

「……んんっ。あー、えっと……それじゃ、タッくん」

 一つ咳せき払ばらいをしてから、私は告げる。

 できる限りクールな口調と態度を心がけて。

「せっかく早めに来てくれたことだし……家庭教師の前に、少しだけ時間もらえるかしら?」

「時間?」

「ちょっと話がしたいの」

 私は言う。

「二人きりで、真面目な話を」

「……その格好でですか?」

「き、着き替がえてからよ!」

 足を踏ふみ出だして突つっ込こむ私。その瞬しゆん間かん、足と足の間に風を感じて、無む駄だに涼すずしかった。そこがクールでどうするのよ?



「タッくんは、コーヒーはブラックでよかったのよね?」

「は、はい」

 きちんと衣服を身に纏まとってから、私は『ドルチェグスト』で飲み物を用意した。

 リビングのテーブルで、彼かれと向かい合うように座すわる。

 タッくんは少し緊きん張ちようした様子だった。

 無理もない。告白した相手から呼び出されて、二人きりで向き合ってるのだから。

 彼かれの緊きん張ちように当てられて、私まで緊きん張ちようが強くなってくる。

「えっと……ま、まず、話を整理しましょう」

 張はり詰つめた空気の中で、私は覚かく悟ごを決めて話を切り出す。

「タッくんは……その、わ、私のことが……す、好き、なのよね?」

「──っ!? い、いきなりですね……」

 タッくんは恥はずかしそうに、手で口元を隠かくすようにする。どうやらそれが、彼かれが照れたときのクセらしい。新発見だ。十年ぐらいの付き合いになるけれど、私にはまだまだ彼かれの知らないところがあるみたい。

 知らなかった。

 ずっと知らなかった。

 タッくんが、告白するとき、どんな顔をするかなんて──

「……はい。す、好き、です」

 本当に恥はずかしそうに、けれどまっすぐ私を見て、タッくんは言った。言い終わると、また恥はずかしそうに口元を隠かくす。

「言わせないでくださいよ……」

「ご、ごめん。えと、その、念のためっていうか、最終確かく認にんっていうか」

 しどろもどろになりながらも、私は続ける。

「それで……具体的に、どうしたいのかしら?」

「ぐ、具体的に……?」

「私のことが好きなのはわかったけれど──その後の具体的なことは、どう考えてるのかと思って」

「それは……」

 タッくんは少し言いい淀よどむようにしてから、真しん剣けんな目となって私を見つめてきた。

「し、真しん剣けんに交際したいと考えています。もちろん将来的には……結けつ婚こんも考えた上で」

「結けつ婚こんっ!?」

 予想以上に直球のワードが出てきて、思わずのけぞってしまう。

「な、なに言ってるのよ、タッくん……」

「……ごめんなさい。そうですよね。俺おれみたいな大学生が結けつ婚こんとか言っても、薄うすっぺらいですよね」

「ああっ、違ちがう、そうじゃなくて……タッくんがどうこうって話じゃなくてね」

 別に『親のすねかじりの分際で、結けつ婚こんとか言ってんじゃねえよ』的なニュアンスで驚おどろいたのではない。

「わかってるの、タッくん……? 私は……あなたとは十以上も年が違ちがうのよ?」

「わ、わかってます」

「それに……私には美み羽うがいるのよ? 未み婚こんだけど、子持ちのシングルマザーなのよ、私……」

「もちろんわかってます。だから、許されるのであれば……将来的には綾あや子こさんと一いつ緒しよに、美み羽うを娘むすめとして育てていきたいです。綾あや子こさんと美み羽うと俺おれ、三人で家族になれたらいいな、ってずっと考えてました」

「…………」

「だからこそ、告白するならせめて就職が決まってから、って考えてた部分はあったんですけど……」

「…………」

 私はなにも言えなくなってしまう。

 話を聞けば聞くほど、真しん剣けんさが痛いぐらいに伝わってきた。告白自体は衝しよう動どう的なものだったのかもしれないけれど、でもタッくんは、私との将来を予想以上に真面目に考えてくれていたようだった。

 その生き真ま面じ目めさ、一いち途ずさに──きゅん、と胸が高鳴ってしまう。

 一人の女として愛おしさを感じずにはいられなかった。

 ……ああんっ、もうっ、なんなの!? なんなの、この子? なんでこんな恥はずかしいこと言えるの!? どれだけ私のこと好きだったの!?

 私との将来を、ずっと考えてたなんて──ん?

 あれ。ちょっと待って。

 ずっと?

「あの、タッくん……そもそもの疑問なんだけど、あなたっていつから、私のことを……その、好き、だったの?」

「いつからって言われたら……大体、十年前ぐらいから」

「じゅ、十年!?」

 思わず目を見開いて驚きよう愕がくしてしまう。

「十年前って……タッくん、あなたまだ、十歳さいぐらいのときじゃないの!?」

「そう、ですね」

「そんなちっちゃな頃ころから私のこと好きだったの!?」

「そう、なりますね」

 啞あ然ぜんとしてしまう。

 えっと……つまりタッくんは、十年間私に片思いしてたってこと!?

 一いち途ずにもほどがあるでしょ!

 十年前──十歳さいの頃ころのタッくん。

 あの小さくてかわいかった少年は──実はずっと、私のこと恋れん愛あい対象として見てたってことなの!?

「十歳さいって……え、ええー……。ていうか……あれ? 十年前ってなると、私とタッくんが出会ったのが、そのくらいじゃ……」

 私が美み羽うを引き取り、この家で暮らし始めたのが十年前。お隣となりさんのタッくんとの付き合いが始まったのも、その頃ころだったはず。

「えと……まあつまり、ほとんど一ひと目め惚ぼれってことです」

 タッくんは照れくさそうな顔で、また恥はずかしくなるようなことを言ってきた。も、もうやめて。そろそろ、ドキドキしすぎて死にそうなんだけど。この甘あま々あまムードに耐たえ切れなくなってきてるんだけど。

「最初に見たときから綺き麗れいな人だと思ってて……極きわめつきは、一いつ緒しよにお風ふ呂ろ入ったときに──」

「お、お風ふ呂ろ!?」

 思わず話を遮さえぎってしまう。お風ふ呂ろ。そうだ。私は昔一度、タッくんと一いつ緒しよにお風ふ呂ろに入っている。雨の日にずぶ濡ぬれでいたから、私の方から誘さそって。

 もちろん。

 お風ふ呂ろだから、お互たがいにすっぽんぽんで──

「ちょ、ちょっと待って……タッくん。あなた、まさか……あのときから私のこと、そういう目で見てたの……!?」

「そ、そういう目って?」

「だから……お、女として見てたの、って意味……」

「──っ!? そ、それは」

 言いい淀よどむタッくん。その反応が、なによりも雄ゆう弁べんな答えだった。羞しゆう恥ち心しんが一気に沸ふつ騰とうし、体中が燃えるように熱くなる。

 噓うそ……でしょ?

 あのときって私、完全に無警けい戒かいだったんですけど。

 なにもかも全部丸出し。

 胸も、お尻しりも、そして──

「う、うう~~……やだ、もう……ひどいわ、タッくん……」

「そ、そんな……! お、俺おれは悪くないでしょ! あのとき、綾あや子こさんが勝手に入ってきたんじゃないですか! 俺おれはすぐに風ふ呂ろから出ようとしたのに、出してくれなくて、無理矢理体とか洗って……」

「なっ! や、やめてよ! それじゃまるで、私が小さかったタッくんに、変なことしたかったみたいじゃない!」

「そこまでは言ってないですよ!」

「ち、違ちがうのよ……私は、タッくんのこと完全に子供だと思ってたから……だって、おちんちんだって毛が生えてなくてツルツルで、形も小さなつぼみみたいだったし」

「~~っ! お、思い出さないでくださいよ、恥はずかしいから!」

「わ、私の方が恥はずかしいわよ! タッくんはいいじゃない、もうサイズも大きくなってるんでしょ! 私の方は……もう完全に大人の体だったのよ! それをバッチリ見られたなんて……」

 あ~、う~。

 どんなだったっけ、あのときの私?

 なんかもう、普ふ通つうにすっぽんぽんでタッくんの前を歩き回ってた気がする。普ふ通つうに体洗ってあげたりした気がする。足を広げて大きくまたぐようにして湯船に入った気がする。うわぁ~、恥はじずかしぃ~~っ!

「……そんな落おち込こまないでくださいよ」

 絶望に近い羞しゆう恥ちを味わう私を、タッくんが励はげまそうとしてくれる。

「あ、安心してください。見てたって言っても、あくまで十歳さいの性の価値観で見てただけなんで……ほとんどおっぱい見てただけですから!」

「それでなにを安心しろというの!?」

 盛せい大だいに突つっ込こんだ。

 今すぐ部屋に籠こもって泣きたい気分だったけれど、そんな己おのれを必死に奮い立たせて、カップに手を伸のばす。

 ヌルくなり始めたコーヒーを、羞しゆう恥ち心しんと一いつ緒しよに強ごう引いんに飲み下す。

 空になったカップを置いてから、

「……はあ。ごめんなさい、取り乱しちゃって」

 と、話のテンションを切きり替かえた。

 落ち着こう。タッくんはなにも悪くない。勝手に子こ供ども扱あつかいして勝手にお風ふ呂ろに入った私が全部悪い。

「とりあえず……事情と背景は大体わかったわ。タッくんが本気だってことも、十分伝わった」

 そう告げると、タッくんの表情に一いつ瞬しゆん、安心が滲にじんだ。

 ズキリ、と胸が痛む。

 その痛みを必死に押おし殺ころして、「でも」と私は続けた。

「私は、あなたと交際することはできません」

 言った。

 きっぱりと、言った。言わなければならなかった、のだと思う。

「え、っと……」

 タッくんの表情は硬かたく強こわばり、瞳ひとみには悲痛な色が浮うかぶ。そんな彼かれを見て、また胸が痛くなるけれど──でも、私は続ける。

 心に蓋ふたをして、仮面を被かぶる。

 社会人としての、そして母としての、大人の仮面を。

「タッくんの気持ちはすごく嬉うれしいわ。私みたいなおばさんを好きになってくれて、申し訳ないぐらいよ。でも……わかって頂ちよう戴だい。私わたし達たちが付き合うなんて、常識的に考えて無理なのよ」

「……常識?」

 深い絶望に沈しずむように項うな垂だれていたタッくんが、ふと顔を上げる。

「常識ってなんですか?」

「え?」

「常識的に考えて無理って、どういうことですか?」

「それは……じょ、常識は常識よ。わかるでしょ」

「わからないです」

 タッくんは身を乗り出して言う。

 不安に揺ゆれる瞳ひとみで、しかし譲ゆずれない感情を滲にじませながら。

「俺おれのことが嫌きらいとか、スネかじりの大学生は恋れん愛あい対象じゃないとか……あとは、今現在、他に好きな男がいるとか、そういうことなら……悲しいですけど、納なつ得とくします。でも……常識ってだけ言われても、そんなんじゃ納なつ得とくできないです」

「……む、無理なものは無理なの。だって私わたし達たち、かなり年が離はなれてるし」

「愛があれば年の差なんて関係ないって、綾あや子こさんも言ってたじゃないですか」

「い、言ったかもしれないけど……」

 タッくんが美み羽うを好きだと思ったから言っただけなの!

 それがまさか、こんな形で降りかかってくるなんて!

「でも、現実的に考えたら、やっぱり無理だから」

「……常識の次は現実ですか」

「と、とにかく常識的にも現実的にも無理なの!」

 強く言ってから、私は一度深く呼吸する。落ち着こう。感情的になってはダメ。きちんと話し合いをしなければ。

「……タッくんは今、一時の気分で舞まい上あがってるだけなのよ。恋れん愛あいや結けつ婚こんって、二人だけの問題じゃないんだからね。仕事とか世せ間けん体ていってものもあるし……それに、あなたのご両親だって」

「うちの親、ですか」

「そうよ。私みたいな子持ちアラサー女との結けつ婚こんを、あなたのご両親が喜ぶとは思えないわ」

 私は続ける。

「タッくんも知ってると思うけど……私と美み羽うは、あなたのご両親にすごくお世話になったの。この家で美み羽うと暮らし始めた私に、タッくんのお母さんとお父さんは、とてもよくしてくれた。初めての子育てで困ったり悩なやんだりしてるとき、何度も何度も助けてもらった……」

 土日でどうしても休めない仕事が入ったとき、隣となりの左沢あてらざわ家で美み羽うを預かってもらったことは何度もある。保育園や小学校で急な熱が出たときは、私の代わりに迎むかえに行ってもらったこともあった。

 他にも、小学校や中学校の入学準備、町内会や自治会のこと、さらには近きん隣りんの安いスーパーやフィットネスクラブの情報などなど。

 ずっとお世話になりっぱなし。

 自分の両親よりも、お隣となりの左沢あてらざわ家の力を頼たよってしまったと思う。

 左沢あてらざわ夫妻の助けなしでは、美み羽うを今日まで育てることはできなかったと思う。

「私は……タッくんのお父さんとお母さんには、返し切れないほどの恩があるの。だから……わかって頂ちよう戴だい。あなたは、私がお世話になった左沢あてらざわ家の、大事な大事な長男なのよ……? タッくんみたいな若い子と、私みたいな子持ちのおばさんが交際することを、ご両親が快く思うはずがないでしょう? そんな恩を仇あだで返すような真ま似ね、とてもできないわ」

「……そう、なのかもしれない、ですね」

 タッくんは沈ちん痛つうな面おも持もちで頷うなずいた。

「親のために結けつ婚こんするわけじゃない、って反論したいとこですけど……それはたぶん、世間知らずな子供の考えなんですよね。結けつ婚こんは、二人だけの問題じゃないですから。それに俺おれだって……自分の親のことは大事ですし、がっかりさせるようなことはしたくない」

「わかってくれたのね。それならよか──」

「でも、安心してください! 綾あや子こさんはきっと、そういうとこを気にするだろうなと思ってたんで──」

 安あん堵どの息を吐はこうとした私に、タッくんは拳こぶしを握にぎりしめて言う。

「うちの両親のことは、前もって説得しておきました!」

「…………」


 はい?

第四章 過去と約束


    ♠


 いつから、という話を明確にすることはできないし、きっと大した意味はないのだと思うけれど、それでも強しいて決めるとするならば──それはきっと、あの日からなのだろう。

 梅つ雨ゆも終わりかけた季節に、思い出したように突とつ然ぜんの大雨が降った日のこと。

 今から大体、十年前ぐらいの話──

 綾あや子こさんが美み羽うを引き取り、うちの隣となりの家で暮らし始めてから、三ヶ月程度が経過した頃ころだっただろうか。

 当時の〝俺おれ〟は、まだ十歳さい。

 小学校に通っていた頃ころで、今より身長もずっと低かった。同年代と比ひ較かくしても小柄で華きや奢しやで、顔立ちも幼くてよく女の子と間ま違ちがえられた。クラスメイトからも女顔をからかわれたりして、それを少々コンプレックスにも感じていた、そんな頃ころ。

 一いち人にん称しようは俺おれではなく『僕ぼく』で。

 美み羽うのことは、『美み羽うちゃん』と呼んでいて。

 綾あや子こさんのことは、『綾あや子こママ』と呼んでいた──



 小学校が終わった後、〝僕ぼく〟はいつも通りまっすぐ家に帰った。

 しかし帰り道の途と中ちゆう、急な雨がザアザアと降ってきた。傘かさを持っていなかった僕ぼくは、駆かけ足あしで家へと急いだのだけれど──

「あ、あれ? 開かない……」

 ガチャガチャ、と。

 ずぶ濡ぬれのまま家のドアを開けようとするも、開かない。

 鍵かぎがかかっている。

「……あっ。そうだ。お母さん、今日はいないんだった……」

 今夜は高校の同窓会らしく、近くの旅館に向かうという話だった。

 だから昨日の夜、『明日はこれで家に入ってね』と、家の鍵かぎを渡わたされていたのに……勉強机の上に置きっぱなしにしたまま忘れてしまった。

 僕ぼくが鍵かぎを持っていると思っているお母さんは、家の鍵かぎを閉めて出かけてしまったらしい。

「ど、どうしよ……? うう……さ、寒いっ」

 びしょ濡ぬれになって肌はだに張り付いた服が気持ち悪い。パンツまで濡ぬれてしまっている。体も段々と冷えてきた。

 どこか開いているドアはないかと、家の周りを一周してみるけれど、全ぜん滅めつだった。どこも戸と締じまりは完かん璧ぺき。これでは泥どろ棒ぼうも僕ぼくも家には入れない。

 玄げん関かんの前で、僕ぼくは途と方ほうに暮れてしまう。

 お父さんもお母さんも、帰ってくるのはまだ数時間先のはず。

 雨はまだザアザアと降り続けていて、傘かさもない僕ぼくはどこかに出かけることもできない。

 どうすることもできず、ただ玄げん関かん前で寒さに震ふるえていた、そのとき──

「──あれ。タッくん?」

 と、僕ぼくを呼ぶ声がした。顔を上げると、隣となりの家に入ろうとしていた女性が、僕ぼくの方に駆かけてくるところだった。

 綾あや子こママだ。

 隣となりに住む美み羽うちゃんのお母さん──の妹さんで、いろいろあって今は美み羽うちゃんのお母さんとして一いつ緒しよに暮らしている。

 彼かの女じよは、コンビニで売っているようなビニールの傘かさを差していた。雨が降り出してから買ったのか、服や髪かみは濡ぬれている。

「ど、どうしたの、タッくん。ずぶ濡ぬれじゃない……」

 綾あや子こママは鞄かばんからハンカチを取り出して、僕ぼくの顔や髪かみを拭ふいてくれる。顔が近づいてきて、ドキッとしてしまう。

 僕ぼくは──綾あや子こママが好きだった。

 好きと言っても、どういう好きなのかは正直自分でもわからないのだけれど、とにかく好きだった。

 美人でスタイルもよくて、うちのお母さんとは大違ちがい。いつも笑え顔がおで優やさしくしてくれる綾あや子こママが、僕ぼくは大好きだった。

「おうちに入れないの? お母さんは?」

「……今日、お母さん、夜まで帰ってこなくて。鍵かぎ、もらってたんだけど、家の中に忘れちゃった」

「そうだったの……よし。じゃあ、おばさんの家にいらっしゃい」

「え?」

「このままじゃ風か邪ぜ引いちゃうわよ。お母さんが帰ってくるまで、うちで待っていればいいわ」

 綾あや子こママは少々強ごう引いんに僕ぼくの手を引き、二人で傘かさに入りながら、隣となりの綾あや子こママの家へと向かった。



「さあ、遠えん慮りよしないで入って」

「お、お邪じや魔まします……」

 遠えん慮りよしないでと言われても、やっぱり少し緊きん張ちようしてしまう。

 隣となりの家に入るのはこれが初めてだった。

 家に入ってドアを閉めると、雨音は一気に遠のく。僕ぼくは綾あや子こママに促うながされ、脱だつ衣い所じよへと連れて行かれた。

「今お風ふ呂ろ湧わかしたから、ちょっとだけ待っててね」

「え……い、いいよ。悪いし」

「ダメよ。濡ぬれたままだと、風か邪ぜ引いちゃうでしょ」

「でも……」

「ほーら? 遠えん慮りよしないの。早く服を脱ぬいで」

「あっ……わ、わかったってっ。大だい丈じよう夫ぶだよ、一人で脱ぬぐから……」

 綾あや子こママが服を脱ぬがそうとしてきたので、慌あわてて振ふり払はらう。十歳さいにもなって人に服を脱ぬがせてもらうのは、さすがに恥はずかしかった。

「そう? じゃあ、ランドセルを貸して。拭ふいてあげるから」

「う、うん……」

 ランドセルを渡わたすと、綾あや子こママはタオルで拭ふいてくれた。

 僕ぼくは服を脱ぬぎ始める。でも、濡ぬれた服は肌はだに張り付いて脱ぬぎづらく、おまけに綾あや子こママが近くにいることで変に緊きん張ちようしてしまい、予想以上に手こずってしまった。

「う……くっ。あ、あれ……」

「ふふっ。もう、なにやってるのよ、タッくん。ほら、バンザイして」

「あ、わっ……」

 見かねた綾あや子こママに結局手伝われてしまう。上着をすぽんと脱ぬがせてもらって、上半身は裸はだかとなってしまった。

 そしてそのまま流れるような動きで──おそらく美み羽うちゃんで何度もやっているんだろう、慣れた動きで僕ぼくのズボンも下ろしてしまう。

 なんと、パンツまで一いつ緒しよに。

「わ、わああっ!?」

 慌あわてておちんちんを手で隠かくす。み、見られた!? 綾あや子こママに僕ぼくのおちんちん見られちゃった!? 僕ぼくは驚おどろきと恥はずかしさで頭が真っ白になるけれど、綾あや子こママは平然としていた。

 なんということもなさそうな顔で、一いつ緒しよに脱ぬがせてしまったズボンとパンツを仕分けている。

「あらー、パンツまでびっしょりね。じゃあこれ、洗せん濯たくしといてあげるから──」

「ち、違ちがうんだよ!」

「うん?」

「僕ぼく、本当はそんなお子様ブリーフじゃなくて、大人っぽいトランクスをはきたいんだよ! でも、お母さんが何回言っても、なかなかトランクスを買ってきてくれなくて……」

「へえ。そうなんだ」

 僕ぼくとしては小学四年生なりの譲ゆずれないプライドのために必死に言い訳したつもりだったのだけれど、どうも綾あや子こママには、僕ぼくの熱意はまるで伝わってないっぽかった。

 笑え顔がおだけど、すごくどうでもよさそう。

 えー……大事じゃん。

 ブリーフかトランクスって、すっごく大事じゃん。

 トランクス=かっこいい男の証明なんだよ、知らないの?

 釈しやく然ぜんとしない僕ぼくをよそに、綾あや子こママは「ちゃんと温まるのよ」と言って、ランドセルを持って脱だつ衣い所じよから出て行った。

 素すっ裸ぱだかの僕ぼくは、ぽつんと脱だつ衣い所じよに取り残された。



「……綾あや子こママは、僕ぼくを幼よう稚ち園えん児じと勘かん違ちがいしてるのかな?」

 浴室で、僕ぼくは一人、溜ため息いきのように呟つぶやいた。まだお風ふ呂ろはできていないから、シャワーを使って体を洗っていた。

 頭の中は……綾あや子こママのことでいっぱいだった。

 家に迎むかえてお風ふ呂ろにまで入れてくれて、やっぱり綾あや子こママは優やさしいなあという感動と……まるで男として認にん識しきされていないことに対する悲しさと虚むなしさ。

 うーん。

 僕ぼく、一応、十歳さいなんだけどなあ。

 おっぱいとか、興味ある年とし頃ごろなんだけどなあ。

 憧あこがれのお姉さんから完全に子こ供ども扱あつかい……というか幼よう稚ち園えん児じ扱あつかいされてしまって、恥はずかしいやら情けないやら、複雑な気分だ。

 やっぱり僕ぼくが……背が小さくてナヨナヨしてるからなのかなあ、うーん。

 悶もん々もんと思おもい悩なやんでいると──ピピー、と音が鳴り、『お風ふ呂ろが沸わきました』と機械音声が流れる。

 その直後──だった。

「お風ふ呂ろ、できたみたいね」

 がらり、と浴室のドアが開かれる音。

 反射的に背後を振ふり返かえり──死ぬほどびっくりした。

 魂たましいが体からすっぽ抜ぬけたかと思った。

 裸はだか、だった。

 完全なる、真まっ裸ぱだか。

 なに一つ身につけない状態で、綾あや子こママは浴室に入ってきた。

「あらタッくん。ちゃんと頭洗ってたのね。偉えらい偉えらい」

 放心状態となる僕ぼくに、綾あや子こママはいつも通りの笑え顔がおで言いながら、近づいてくる。歩くたびに……大きな乳ち房ぶさが大きく揺ゆれた。

 すごい。

 服の上からでも大きいと思っていたけれど……想像以上に大きい。

 生まれて初めて見たお母さん以外の女性の裸はだかを前に、気を失ってしまいそうになるけれど、

「な……なにやってるの!?」

 と、どうにか言葉を絞しぼり出だした。

「うん? なにって、私も一いつ緒しよに入ろうかと思って」

「な、なんで……」

「なんでって、おばさんも結構濡ぬれちゃってたから」

「ダ、ダダ、ダメだよ、そんなの……」

「どうしてダメなの? タッくんはおばさんと一緒にお風ふ呂ろ入るの、嫌いや?」

「い、嫌いやとかじゃなくて……」

「うふふ。じゃあ決まりね」

 笑え顔がおの綾あや子こママを前に、僕ぼくは言葉を失う。

 ああ、ダメだ……やっぱり綾あや子こママ、僕ぼくのこと完全に子供だと思ってる。美み羽うちゃんと入る感覚で僕ぼくとお風ふ呂ろに入ってて、僕ぼくがただ照れて恥はずかしがってるだけだと思ってる。

 十歳さいの男子児童がどれだけ性に目覚めてるか全然わかってない。

 完全なる無警けい戒かい。

 タオルもなく、手で隠かくす素そ振ぶりすら見せない。おかげで胸もお股も、全部丸見えだ。大きくて張りのある乳ち房ぶさ、しっかりとくびれた腰こし回り、そして……足と足の間の──

「っ!? ぼ、僕ぼく、あがりますっ」

 恥はずかしさと申し訳なさで心がいっぱいいっぱいになってしまった僕ぼくは、跳はねるように立ち上がって、浴室の外へとダッシュする。

 しかし──

「──あんっ」

 もにゅん、と。

 綾あや子こママに通せんぼされ、動きを止められる。

 下を向いていたため前方不注意で──その結果、思い切り綾あや子こママの体にダイブする形となってしまった。

 全身が、柔やわらかなもので包まれる──

「わ、わ、わ……」

「こら、タッくん。お風ふ呂ろ場で走ったら危ないでしょう?」

「う、う……」

「きみぐらいの子がお風ふ呂ろ嫌ぎらいなのはわかるけど、ちゃんと温まらないと風か邪ぜ引いちゃうわよ? ほら、頭もまだ途と中ちゆうじゃない。ちゃんと座すわって。私が洗ってあげるから」

「…………ふぁ、ふぁい」

 全身を柔やわらかな感かん触しよくで包まれてしまった僕ぼくは、もう逆らう気力もなくして綾あや子こママのいいなりとなる他なかった。途と中ちゆうだった頭も洗われ、ついでに体も隅すみ々ずみまで洗われてしまう。

 綾あや子こママの手が全身を撫なで回まわし、前にある鏡では裸はだかがちらちらと見える。

 うう……ダメだ。気を抜ぬくと鼻血が出そう……よし。こういうときは円周率を数えよう。えっと、3・14の先はどう計算するんだったかな。算数の先生が授業でいろいろ話してて、そうそう確か、中学からは円周率はπパイに──ぱ、ぱい!? おっぱい!? いやいや違ちがう違ちがうそうじゃなくて……。

 一人悶もん々もんと悩なやんでいるうちに、体は洗い終わってしまった。

 そして綾あや子こママの命令により、一いつ緒しよに湯船に入らされる。

「はあ、気持ちいぃ~」

「…………」

「どう、タッくん? 熱くない?」

「だ、大だい丈じよう夫ぶ、だよ」

「もう……どうしてそんな端はしっこで縮こまっているの? もっとこっちに来て、足を伸のばしていいのよ」

「い、い、いいよ、僕ぼくはこの辺で」

「そう、謙けん虚きよなのね、タッくんは」

 苦く笑しようする綾あや子こママ。いや、謙けん虚きよとかじゃなくてさあ。

「……うふふ。えいっ」

 悪戯いたずらめいた笑い声を漏もらしたかと思うと──がばっ、と。

 浴よく槽そうの隅すみで反対側を向いていた僕ぼくの背中に、綾あや子こママが抱だきついてきた。

「つーかまえたっ」

「え、え……」

「ほら、こうして足伸のばした方が気持ちいいでしょ? 遠えん慮りよしなくていいのよ?」

 いや、遠えん慮りよとかじゃなくて!

 肩かたを摑つかまれて強ごう引いんに引っ張られ、僕ぼくは綾あや子こママに後ろから抱だきしめられる形となった。足が伸のばせて確かに気持ちよかったけれど……体のあちこちが綾あや子こママに当たって、別な意味でも気持ちがいい。

 ていうか、絶対背中におっぱいが当たってる気がする!

「うふふ。タッくんて、本当に小さくてかわいいわね。私の手の中にすっぽりと収まっちゃう」

 綾あや子こママは楽しげに言うが──その一言で、のぼせ気味だった僕ぼくの頭は、一気に冷静になってしまう。

「……かわいいって言われても、嬉うれしくないよ」

「え?」

「学校でも、よくからかわれるんだ。女みたいな奴やつ、とか、スカートはいてみろ、とか……僕ぼく、背が小さくて、ヒョロヒョロしてるから」

「タッくん……。ごめんね、私、なにも考えずに言っちゃって」

 本当に申し訳なさそうに謝あやまってくる綾あや子こママ。

「でも、あんまり気にしなくていいと思うわよ。身長が伸のびる時期って個人差があるし、それに男の子は、女の子より少し成長期が遅おそかったりするの。心配しなくても、もうすぐタッくんの背はどんどん伸のびてくはずよ」

「そ、そうなのかな?」

「ええ、そうよ。たくさん食べてたくさん運動すれば、健康的に大きくなれると思う。タッくん、なにかスポーツはやってないんだっけ?」

「うん……サッカーとかソフトボールとかやってたけど、あんまり上手うまくできなくて、すぐやめちゃった」

 僕ぼくは球技が苦手だった。ボールを扱あつかうのも得意じゃないし、なにより仲間と一いつ緒しよに戦うというのが合わなかった。失敗したら仲間に迷めい惑わくがかかる、と思うと、緊きん張ちようしていつも失敗してしまう。

「そうなんだ。じゃあ……水泳とか、どうかしら?」

「水泳?」

「そう。私も最近知ったんだけどね……水泳やってる子って、頭のいい子に育つことが多いらしいのよ。難関大学に合格する人の中でも、小さい頃ころに水泳習ってた子が多いんですって。だから美み羽うにも、そのうち習わせようと思ってるの」

「水泳……」

「それに、水泳やってる男の人って……なんていうか、格好いいわよね。逆三角形のいい体してて」

「か、かっこいい……」

 単純な話だけれど、綾あや子こママのその一言で、僕ぼくの心は一気に動いた。

「僕ぼく、やってみようかな」

「ほんと? じゃあタッくんが習い始めたら、美み羽うも同じところに通わせようかしら? ああでも、他にも、英会話とかダンスとか、やらせたい習い事がたくさんあるのよね。どうしようかなあ?」

「綾あや子こママ、美み羽うちゃんのこと、たくさん考えてるんだね」

「まあね。私、美み羽うのママだから」

 ママ。そう、ママだ。

 綾あや子こママは、美み羽うちゃんのお母さんになった。

 本当のお母さんじゃないけれど──でも、あのお葬そう式しきの日に、綾あや子こママは美み羽うちゃんのママになった。

「……綾あや子こママは、すごいよね」

 胸が高鳴り、言葉が零こぼれていく。

「僕ぼく、綾あや子こママのこと、尊敬してるんだ」

「尊敬? 私を?」

「うん! お父さんとお母さんが事故にあって……一人きりになっちゃった美み羽うちゃんのこと、綾あや子こママは助けてくれたでしょ? お葬そう式しきのとき、他の大人達たちと違ちがって、綾あや子こママだけが美み羽うちゃんのことを一番に考えてた」

「…………」

「僕ぼく、すごくかっこいいな、すごく素す敵てきだな、って思ったんだ。あのときの綾あや子こママは、まるでヒーローみたいだった」

「──ヒーローだったら、よかったのにね」

 と。

 痛みに耐たえるような声が、耳に入る。熱に浮うかされたように憧あこがれを語っていた僕ぼくは、思わず背後を振ふり返かえる。

「本当に、ヒーローだったら……ヒーローみたいに、強くて気高くて格好よくて、なんでも完かん璧ぺきにできたら、よかったのに……」

「綾あや子こママ……」

 後ろを向いた僕ぼくは、思わず息を吞のんだ。

 涙なみだが。

 綾あや子こママの目からは、涙なみだが零こぼれていた。雫しずくが頰ほおを伝い、湯船に落ちる。

「ど、どうしたの……?」

「うん、えっとね、実は今日、ちょっと……いろいろあって」

 手で涙なみだを拭ふき、少し言葉を溜ためてから、綾あや子こママは言う。笑え顔がおだったけれど、それは無理矢理作ったような、悲しい笑え顔がおだった。

「仕事で、失敗しちゃったんだ」

「失敗……」

「私が担当してた仕事が……他の人のものになっちゃったの。私が初めて一から考えた企き画かくだったのに、もう私は関係なくなっちゃった……」

 僕ぼくにもわかるような言葉にかみ砕くだきながら、綾あや子こママは言う。

「私なんて会社じゃ新人もいいところなんだけど、でもうちの社長は、面おも白しろいアイディアなら、新人だろうとやりたいようにやらせてくれる人でね。それで……私の考えた企き画かくが、いろんな人に認められて、ようやく動き出したところだったんだけど……」

 声は段々と沈しずんでいき、しかしそれとは反対に、声に籠こもる感情は強くなっていった。

「美み羽うのことと仕事のこと、どうしても両立できなくなっちゃったの」

「…………」

「保育園の迎むかえがあるから残業は全然できないし、美み羽うが熱を出したら、仕事の途と中ちゆうでも保育園に迎むかえに行かなきゃならない……そんな状態で、新しいプロジェクトの真ん中にいるのは、どうしてもキツくてさ。いろんな人から『今は子供との時間を大事にした方がいいよ』って、嫌いやみなのか優やさしさなのかわからないこと言われて……。社長は最後まで私を担当にしようと頑がん張ばってくれたんだけど……申し訳なくって、誰だれかに代わってもらえるように自分からお願いしたの」

 自分が立ち上げた企き画かくを、やむを得ぬ事情で他の者に任せる。それがどれだけ辛つらく悔くやしいことなのかは、十歳さいの僕ぼくにはよくわからない。

 でも、綾あや子こママの悲しそうな顔を見れば、その辛つらさは痛いぐらいに伝わってきた。

「別に、ね……仕事のことは、いいの。ただの自じ業ごう自じ得とくだから。ただ……」

 か細い声が震ふるえていく。

 大きな目には、また涙なみだが滲にじんだ。

「……仕事で手て一いつ杯ぱいになってるとき、保育園から電話かかってきて『美み羽うちゃんが熱を出しましたから、迎むかえに来てください』って言われて……私、思っちゃったの。一いつ瞬しゆんだけ、思っちゃったの──『やっぱり私がお母さんなんて無理だったのかな。他の人に任せた方がよかったのかな』って」

「綾あや子こママ……」

「ダメ、だよね。ひどいよね。こんなこと、一いつ瞬しゆんでも考えちゃうなんて、母親失格もいいところよ……自分で決めたことなのに、覚かく悟ごしたはずなのに……私が、美み羽うのママなのに。美み羽うには、もう私しかいないのに……。私、もう自分が恥はずかしくて、情けなくて……」

「…………」

 しょうがない、と思った。仕事で死ぬほど忙いそがしいときなら、一いつ瞬しゆんぐらいそんなことを考えてしまったって無理はないと思う。覚かく悟ごしたはずの決断を後こう悔かいすることなんて、きっと誰だれにだってあるだろう。

 でも──綾あや子こママは、その一いつ瞬しゆんすら許せなかったらしい。

 直接血は繫つながっていなくても、それでも母親であろうとした彼かの女じよは、その優やさしさと気高さゆえに、自分の未熟さが許せない。

 だから今──涙なみだを流している。

 衝しよう撃げき、だった。

 大人の人がボロボロ泣く姿を、僕ぼくは生まれて初めて見た気がする。

 悲しみを堪こらえ切れずに涙なみだを流してしまった綾あや子こママが、この瞬しゆん間かん、僕ぼくにはか弱い少女のように見えた。

 十歳さい以上も年上のお姉さんが、自分よりも年下の、頑がん固こで意地っ張りな少女みたいに見えてしまった。

「……あ、あはは。ごめんね、なんか愚ぐ痴ちみたいなこと言っちゃって。タッくんにこんなこと言っても、まだわからないよね」

 綾あや子こママは涙なみだを拭ぬぐい、誤ご魔ま化かすみたいに笑う。

「しっかりしなきゃなあ。社会人としても母親としても、もっとちゃんとしなきゃ。私はこれから、一人で美み羽うを育てていかなきゃなんだから」

「──一人じゃないよ」

 僕ぼくは言った。

 気がつけば、言葉が飛び出した。

 胸むねの奥おく底そこで燃え上がる感情に、押おし出だされるように。

「綾あや子こママには、僕ぼくがいるよ」

「タッくん……」

「た、頼たよりないかもしれないけど、僕ぼくにできることだったら、なんでもするから! それに、僕ぼくだけじゃないよ。うちのお父さんとお母さんだって、綾あや子こママと美み羽うちゃんのこと、大好きなんだよ! 困ってるときはなんだって協力するから!」

 僕ぼくは言う。

「嫌いやなことや辛つらいことがあったら、僕ぼくが綾あや子こママを守るから。だから……だから、綾あや子こママ。もう……泣かないでよ」

 必死に叫さけんだ僕ぼくの頭に、ぽん、と手が置かれる。

「ありがとね、タッくん」

 綾あや子こママは笑っていた。僕ぼくの頭を撫なでながら、まだ涙なみだが少し滲にじむ目を細めて、本当に嬉うれしそうに笑ってくれた。

 その笑え顔がおがあまりにも綺き麗れいすぎて、今すぐ抱だきしめたくなるぐらいに美しくて、僕ぼくの心臓はうるさいぐらいに騒さわぎ出した。



 きっと──あの日から、なのだろう。

〝俺おれ〟が恋こいに落ちたのは、あの瞬しゆん間かんだった。

 隣となりに住む憧あこがれのお姉さん──不ふ慮りよの事故に遭あった姉夫ふう婦ふの子供を引き取り育てる、最高に格好いい大人のお姉さん。

 十歳さいの少年にとってのヒーローで、女め神がみや聖母のようだと妄もう信しん的に神格化していた女性──そんな彼かの女じよが見せた涙なみだに、俺おれは衝しよう撃げきを受けた。

 そして、己おのれの勘かん違ちがいを恥はじた。

 綾あや子こさんは、完全無欠のヒーローなんかじゃなかった。

 女め神がみでも聖母でもなかった。

 ただ、優やさしくあろうと、気高くあろうと、己おのれを奮い立たせていただけだった。どんなに格好よく見えても、一人のか弱い女性だった。

 だから──守りたい、と思った。

 十歳のガキがなに言ってんだって感じだけれど──それでも、思ってしまった。守ってあげたいと、分不相応な願いを抱いだいてしまった。

 綾あや子こさんを守れるような男になりたい、と──

 十年経たった今でも、あの瞬しゆん間かんの感情は微み塵じんも薄うすれていない。

 それどころか、日増しに強く燃え上がっていく。


    ♥


「あら。おはよう、綾あや子こさん」

「おはようございます、朋とも美みさん」

 翌朝、ゴミ捨て場でばったり、タッくんのお母さん──左沢あてらざわ朋とも美みさんと会った。

「こないだは、そちらでうちの息子むすこの誕生会を開いてもらったみたいで。本当にありがとうね」

「いえいえ。全然大したことはしてないですよ。巧たくみくんにはいつもお世話になってますから」

「美み羽うちゃんは、高校の方はどうなの? そろそろ慣れてきた?」

「どうなんでしょう? まあ楽しそうに通ってますけど、私があれこれ尋たずねると嫌いやそうな顔するんですよ」

「あー、そういう難しい年とし頃ごろなのねえ」

 互たがいに挨あい拶さつをしつつ、普ふ段だん通りの日常会話を始める。傍はたから見れば井い戸ど端ばた会議、というやつなんだろう。近きん況きよう報告や噂うわさ話ばなしが大半を占しめる、言ってしまえば大して中身のない雑談。

 しかし今日、私は雑談の途と中ちゆうに頃ころ合あいを見て、

「あ、あー……そういえば、朋とも美みさん」

 と話を切り出した。

「巧たくみくんのことなんですけど」

「うん? 巧たくみがどうかしたの?」

「えーっと、その……なんと言いますか、巧たくみくんもそろそろお年とし頃ごろじゃないですか?」

「年とし頃ごろ……?」

「いやだからその……、一人の男として……女性との交際を、考えたりする年とし頃ごろと言いますか」

「…………」

「と、朋とも美みさん的には、巧たくみくんには、どういう相手と付き合って欲ほしいとか、そういう親としての願望はあるのかなあ、と思いまして」

「……綾あや子こさん。まさか──巧たくみから、なにか言われましたか?」

 自分なりに相当遠回しに頑がん張ばってみたのだけれど、やっぱり不自然以外のなにものでもなかったのだろう。最初は不思議そうな顔をしていた朋とも美みさんは、突とつ如じよなにかを察したような顔つきとなった。

「な、なにか、と言いますと?」

「その、だから……あなたに対する、巧たくみの気持ちとか」

「──っ!? そ、それは……えっと、あの、まあ……はい」

 もはや誤ご魔ま化かすことに意味はないと感じて、私は神しん妙みように頷うなずいた。

「誕生会の夜に……告白、されました」

「……そう、ですか」

「も、もちろんちゃんと断りましたから! 付き合うつもりはないので安心してください!」

「…………」

「えと、あの、た、巧たくみくんが不満とか嫌きらいとかそういうことではなくて、やはり常識的に考えて、私わたし達たちの関係は難しいと思いましたので……」

「…………」

 必死に言い訳するも、朋とも美みさんの反応はない。

 無言のまま目を閉じて、空を仰あおいでいる。「とうとうこの日が来てしまったか」という心の声が聞こえてきそうな、覚かく悟ごと諦てい観かんが滲にじむ顔つきだった。

 数秒の沈ちん黙もくの果てに、

「綾あや子こさん」

 と、朋とも美みさんは言う。

 なにもかもを受け入れたような、覚かく悟ごを決めた顔で。

「うちで、お茶でも飲んでいきませんか?」



 左沢あてらざわ家は、うちと同じ二階建ての一いつ軒けん家や。

 十数年前にこの辺り一帯が住宅用の分ぶん譲じよう地ちとして売り出され、大手ハウスメーカーが開かい催さいしたキャンペーンによって多くの家が建てられた。

 つまり姉夫ふう婦ふと左沢あてらざわ家は、ほぼ同時期に新築の家を建て、ほぼ同時期に住み始めたことになる。

 そのためか、なにかと付き合いはあったらしい。

 生前の姉からも「お隣となりさんがいい人で本当によかった」と何度か聞いていたし、姉夫ふう婦ふが建てたこの家に私が住み始めてからも、左沢あてらざわ夫妻からは本当によくしてもらっている。

「もう、十年ぐらい前になるかしら?」

 左沢あてらざわ家のリビング──急きゆう須すで淹いれたお茶を一口飲んでから、朋とも美みさんは遠い目をして語り始めた。私の方は、緊きん張ちようからまだお茶に手をつけられずにいる。

「鍵かぎがなくて家に入れなかった巧たくみを、綾あや子こさんが夜まで預かってくれたことがあったでしょう?」

「は、はい」

「その日、家に帰ってきてから、巧たくみが私と主人に言ったのよ。『僕ぼくは大きくなったら、綾あや子こママと結けつ婚こんする』って」

「…………」

 どんな顔をすればいいかわからなかった。

 あの日──一いつ緒しよにお風ふ呂ろに入った日、タッくん、そんなこと言ってたんだ。

「最初は私も主人も、冗じよう談だんだと思ったのよ。まあ冗じよう談だんじゃなくても、単なる子供の憧あこがれみたいな感情かなって。綾あや子こさんと遊んだのが、よっぽど楽しかったのかしらねえ。いったい、なにをしたんです?」

「え、えーっと……これといって、特別な事はなにも……」

 い、言えない。

 この流れで「一いつ緒しよにお風ふ呂ろ入りました~」なんて絶対言えない!

「私わたし達たちは子供の戯たわ言ごとだと思って適当に流したんだけど……その日から、巧たくみは変わったわ」

「…………」

「学校の勉強を頑がん張ばるようになったし、前に勧すすめたときは嫌いやそうな顔した水泳も、自分から習いたいって言い出したの。勉強もスポーツもすごく精力的に取り組むようになって、それに食べ物の好すき嫌きらいもなくなったわ。『綾あや子こママに見合うだけの格好いい男になるんだ』って言って」

「…………」

「どういうモチベーションであれ、せっかく息子むすこがやる気出していろいろと頑がん張ばってるんだから、親として水は差したくなくてね。どうせそのうち、学校で好きな女子でもできるだろうと思ったし」

 でも、と朋とも美みさんは続ける。

 大変複雑そうな顔をして。

「巧たくみは、とうとう十年……あなたが好きだと言い続けてきたわ」

「…………」

「高校に入っても大学に入っても、全然変わらないの……」

「…………」

 なんだろう。

 とりあえず土下座したい気分になった。

「私と主人も、さすがに不安になってきちゃって……いえ、もちろん、綾あや子こさんを悪く言うつもりはないのよ? ただ……ね? どうしても、年の差とか、美み羽うちゃんのこととかが、気になっちゃって」

「……そう、ですね」

 当然だと思う。

 逆の立場だったら、私だって不安になるし、絶対反対する。

 息子むすこが、十以上も年上のシングルマザーと結けつ婚こんしたいなんて言い出したら。

「何度か家族会議みたいなこともしたんだけど、それでも巧たくみの気持ちは全く変わらなかった。何度説得しても、全然聞いてもらえない。あの子、本当に綾あや子こさんのことしか目に入ってないみたい……」

 言葉をそこで句切り、一つ息を吐はき出だす朋とも美みさん。

「そうかぁ……とうとうあなたに告白しちゃったのね、あの子」

 その表情は、寂さびしげで儚はかなげで、一言では言い表せないような深い感かん慨がいが滲にじんでいた。子供を二十年間育ててきた母親でなければできないような、親としての年齢を感じさせる表情──

「やっぱりね、親としては……子供には幸せになって欲ほしいと願ってしまうのよ。わざわざ苦労しそうな道には進んで欲ほしくない。平へい凡ぼんでもいいから、ごくごく普ふ通つうの家庭を築いて欲ほしい……そんな風に、願ってしまうの」

「……わかります。私も、一人の親としてそう思います。だから安心してください。私は巧たくみくんと──」

「でも、そんなのって結局、親のエゴでしかないのよね」

「──付き合うつもりは……え?」

 思わず顔を上げて、相手の顔をまじまじと見つめる。

 朋とも美みさんは、なにかを悟さとったような穏おだやかな微び笑しようを浮うかべていた。

「なにが幸せかなんて、そんなの親に決められることじゃない。むしろ、喜ぶべきなのかもしれないわよね。うちの息子むすこは、とっくに自分の進むべき道を見つけていたんだから」

「……えっと」

「これが、昨日今日の思いつきなら許せるはずもないけど……あの子は、十年間、ずっと頑がん張ばってきたんだものね。勉強もスポーツもすごく頑がん張ばって、高校も大学も、第一志望の難しいところにしっかり合格して……」

「……あの」

「私も主人も、あの子の頑がん張ばりを、ずっと身近で見てきた……」

「……あのー」

 ど、どうしよう。

 朋とも美みさん、完全に自分の世界に入ってる。私に話してるようで、完全に独り言になっちゃってる! 自己完結してる!

「それでね、主人とも話し合って……決めたの。巧たくみと綾あや子こさんの交際を認めよう、ってね」

「なっ!?」

 認めちゃったの!?

 私との交際を!?

 私の意思は!?

「二十歳はたちの誕生日に、巧たくみにもそのことを伝えたわ。あなたの好きにしなさい、って。親として応おう援えんもしないけれど反対もしない。ただあなたの決断を尊重する、って」

 そんなことしてたの!?

 うちでのお誕生日会の前日に、そんなことしてたの!?

 内心で突つっ込こみまくる私だったけれど、そこで朋とも美みさんはようやく、思い出したように私の方を見た。

「あっ。もちろん、一番大事なのは綾あや子こさんの気持ちよ。あなたにその気がないのであれば、ガツンとフッてやって構わないから。私わたし達たちに気を遣つかうことなんてないわ」

「…………」

「でも」

 朋とも美みさんは言う。

 涙なみだを堪こらえるような顔で、抑おさえ切れない感情が滲にじむ声で。

「もしも……もしも綾あや子こさんが、巧たくみのことを憎にくからず思っていてくれるのなら……そのときは」

 そして彼かの女じよは姿勢を正し、深々と頭を下げる。

「息子むすこのこと、どうかよろしくお願いします」

「…………」

 私はもう、なにも言えない。

 なにを言っても、どんな反応しても、変なことになりそう。

 だから……イエスともノーともつかない、すごく曖あい昧まいな笑えみを浮うかべてその場を乗り切るのだった。



「ただいまー……って、うわっ。ママ、また死んでんの?」

 夕方──

 学校から帰ってきた美み羽うが、ソファで死んだように横たわる私を見て、呆あきれ果はてたように呟つぶやいた。こないだみたいにリビングが荒あれ果はてていることはなかったけれど、母親としては情けない姿に変わりはないだろう。

「また、タク兄のことで悩なやんでるの?」

「……ん。まあ」

「もうとっとと付き合っちゃえばいいのに」

「なんでそうなるのよ……」

 溜ため息いきのように言いながら、私はソファから体を起こす。

「今日……朋とも美みさんと話してきたわ」

「タク兄ママと? まさか……タク兄の愛の告白について!?」

「まあ、そんなとこ」

「うっそっ! すごい! ど、どうなったの!? やっぱ反対された!? 殴なぐられた!? 『貴様にお義か母あさんと呼ばれる筋合いはない!』とか言われちゃった!?」

「……『息子むすこのこと、どうかよろしくお願いします』って言われた」

 頭を抱かかえながら言う私に、美み羽うは落らく胆たんした顔となる。

「なーんだ、修しゆ羅ら場ばにはなんなかったのか」

「なんであなたは修しゆ羅ら場ばを期待してるのよ……?」

「でもすごいね。相手の親に許してもらえるなんて。ママみたいなこぶ付き女の場合、普ふ通つうは相手の親に嫌いやがられそうなのに」

 さばさばと言う美み羽う。自分を『こぶ』扱あつかいしてるんですけど、意味わかってて言葉使ってるのかしら?

「相手の親公こう認にんかあ。よかったじゃん、ママ。これでなんの遠えん慮りよもなくタク兄と付き合えるね」

 意い気き揚よう々ようと言う。

 ああ、なんなのかしら、この状じよう況きよう?

 娘むすめが全力で応おう援えんしてくれて、相手の親からも認められて。

 なんていうか……もう障害がなにもないんですけど!

 周囲からのプッシュがすごいんですけど!

 こんな外そと堀ぼりから固められたら、もう付き合うしかない──

「……そういうわけにはいかないでしょ」

 私は言った。

 自分に言い聞かせるように、言った。

「付き合うとか結けつ婚こんとか、そういうのって簡単なことじゃないんだから」

「一度も結けつ婚こんしたことないママに言われても」

「……う、うるさいわよ」

 鋭するどい指し摘てきに弱々しく返してから、私はソファから立ち上がる。

「もういいわ。もう誰だれにも頼たよらない。自分でなんとかしてやる」

 強く拳こぶしを握にぎりしめる。

「……たぶんタッくんは、なにか勘かん違ちがいをしてるのよ。年上の女に夢を見てるっていうか、幼い頃ころの初はつ恋こいをそのまま引きずってるっていうか」

 そうでもなきゃ説明がつかない。

 だって私は──十年も思いを寄せてもらえるような、大した女じゃない。

 三み十そ路じを越こえた、ただのおばさん。

 仮に付き合ったとしても──失望させてしまうだけだと思う。

 どうせ失望されるなら、早い方がいい。

 傷を負わせるにしたって、浅い方が絶対にいい。

「タッくんが夢に生きてるなら、その夢から覚めさせてあげなきゃね。私という女の……悲しい現実を見せてあげなきゃ」

 私は言う。

「名付けて『タッくんにアラサー女の現実を見せつけて嫌きらわれる大作戦』よ!」

「……名前、ダサ」

 美み羽うは冷たく言い放った。

 その後に付け加えた「てかその、『○○大作戦』っていうネーミングが、すごく古くさくておばさんぽいよね」という死体蹴げりの一言で、心がへし折れそうになった。

第五章 作戦と混沌


    ♥


 作戦その一。

『飲んだくれアラサー女はキツい大作戦』。


 これは……キツいだろう。

 いい年こいた女が酒に溺おぼれて我を忘れるなんて、みっともないにも程ほどがある。酒でベロンベロンになった醜しゆう態たいを見せつければ、百年の恋こいも冷めてしまうに違ちがいない。

 というわけで。

 タッくんが美み羽うの家庭教師にやってきた日、私は作戦を決行した。

 二人が部屋にいる隙すきに──飲む。

 こないだ栓せんを抜いたばかりで、まだ半分ぐらい残っていた高級ワインを──思い切ってラッパ飲みする。

 飲む。飲む。飲む。

 もはや味もへったくれもない。高級ワイン特有のまろやかな舌した触ざわりやフルーティーな香かおりも一いつ切さい感じない。最低の飲み方でボトルの残りを全部飲み干す。

 タッくんが二階から降りてきた頃ころには中身が空となり──

 私は、完全にできあがっていた。

「綾あや子こさん。すみません、美み羽うがなんか飲み物が欲ほしいって──えっ!」

 飲み物を取りに来たらしいタッくんは、リビングのドアを開いた瞬しゆん間かん、ギョッとした声を上げた。

 おそらくは、テーブルに突つっ伏ぷして死んでいる私を見つけたせいで。

「あ~……、た、たっくーん……?」

 必死に体を起こそうとするも、上手うまく力が入らない。

 体はフラフラで、目の前はグルグル。

 あー……。

 どうやら、完全に酔よっ払ぱらってしまったらしい。

 ていうか……酔よったというよりシンプルに気持ち悪い。今まで飲んだこともないような勢いでアルコールを大量摂せつ取しゆしたせいで、胃が謎なぞの動きをしているような気がする。

「だ、大だい丈じよう夫ぶですか?」

「……ぜ、ぜんぜん、だいじょーぶだよー。よ、よ、酔よっ払ぱらっちゃったのー」

「こないだのワインの残り……一人で飲んじゃったんですか?」

「うん、飲んじゃったの。酔よっ払ぱらっちゃったのー」

 気分も体調も最悪だったけれど、朦もう朧ろうとする頭をどうにか働かせて、必死に酔よっ払ぱらいの演技をする。

 飲んだくれの、酷ひどい女を演じる。

「なにやってるんですか、綾あや子こさん……?」

「……今まで隠かくしてたけどさー、実は私、結構一人で飲むのよね。一人で潰つぶれるまで飲むような、酷ひどい飲み方するのよねー……」

「え? いや……綾あや子こさん、あんまり飲まないですよね?」

「の、飲む飲むっ! 今まで隠かくしてただけで、本当はすっごく飲むの! 居酒屋とかハシゴしちゃうタイプ! ウォッカとかジョッキで一気しちゃうのよ!」

「……ウォッカはジョッキじゃなくてショットで飲んだ方がいいと思うんですが」

「テキーラとかライチでいっちゃうタイプ!」

「……テキーラにはライムじゃないですか?」

「庶しよ民みん的な角つのハイとかも大好きよ!」

「……あれ、角かくハイって読むのが一いつ般ぱん的だと思いますよ」

 しまった!

 飲んべえを演じようと思ったけど、私、あんまりお酒の知識がなかった!

「と、とと、とにかく飲むのよ私! 社会人になってからずっと、仕事のストレスを酒で誤ご魔ま化かしてきたの。仕事帰りはあちこち飲み歩くし、朝帰りなんてザラだし、酔よった勢いでお持ち帰りされちゃうことだって──」

「なに言ってるんですか」

 必死にまくし立てる私に、タッくんは苦く笑しよう気味に言う。

「綾あや子こさんがお酒を解禁したのなんて、本当に最近の話でしょう?」

「え……」

「娘むすめがまだ小さいからって、会社の飲み会とかも全部断ってるって言ってたじゃないですか」

「それは……」

「いつだかうちで夕飯食べたときだって……親父おやじが酒勧すすめても、しっかり断ってたでしょ。『夜中、美み羽うになにかあったとき、運転できないと困るから』って」

「…………」

 確かに私は──長い間お酒を断っていた。

 美み羽うが夜中に熱を出したり怪け我がをしたりしたとき、車を運転できないと困るから。

 私わたし達たちが住んでいる地方都市では、なにかにつけて車が必ひつ須すとなる。親一人子一人で生活している歌枕かつらぎ家にとって、いざというときに私が運転できない状態は大変厳しい。

 だから極力、お酒は飲まないようにしてきた。

 解禁したのは、美み羽うの高校受験が終わったぐらいのこと──

「よ、よく覚えてるわね、そんな話……」

「覚えてますよ」

 タッくんは言う。

「綾あや子こさんのこと、ずっと見てきましたから」

「……っ」

 ワインのせいで熱くなっていた顔が、さらに熱くなるのを感じた。

「ま、まあ……お酒は断ったりもしたけど、えっと、だから──あうっ」

 彼かれの顔が直視できず、逃にげるように椅い子すから立ち上がろうとするも、目め眩まいがしてバランスを崩くずしてしまう。酔よいはどんどん酷ひどくなってきている。

「だ、大だい丈じよう夫ぶですか!?」

 咄とつ嗟さにタッくんが、肩かたを抱だいて支えてくれた。

「だいぶ酔よってるみたいですね。言ってることメチャクチャですし……」

 飲んべえだと思われようとする演技は、全て酔よっ払ったせいの支し離り滅めつ裂れつな言動と判断されたみたい。

 安心したような、それはそれで複雑なような……。

「高いワイン独ひとり占じめしたかったのはわかりますけど、あんまり変な飲み方したらダメですよ」

「……は、はい」

 二十歳はたちの子に正論で注意されてしまった。うう……違ちがうのに! こんな変なことになってるのは、誰だれのせいだと思ってるのよ!

「とりあえず、部屋まで送っていきますよ」

「え……だ、大だい丈じよう夫ぶよ! 一人で歩けるから……」

 強がって手を振ふりほどこうとするも、またも足あし下もとがフラついてしまい、結局タッくんに支えられてしまう。

「あ、あれ……? あう……ダ、ダメかも……いやっ、な、なんとか」

「……失礼します」

 覚かく悟ごを決めたような声で呟つぶやいた後──ひょい、と。

 タッくんは私を持ち上げた。

 片手は肩かたを抱かかえて、もう片方の手は両りよう膝ひざの下に入れて。

 世に言う、お姫ひめ様さま抱だっこ──

「え、え、ええ~~っ!? な、なにやってるのタッくん!?」

「すみません……危なっかしくて、ほっとけないんで」

「だからって……」

 は、恥はずかしいっ!

 この年でお姫ひめ様さま抱だっこされちゃうなんて!

「……お、重くない、私?」

「全然。軽すぎるくらいですよ」

 そう言ってのける彼かれは、本当に軽々と私を持ち上げていた。

「じゃあ部屋まで行きますね」

「……はい」

 私はもうなにも言えず、ただ頷うなずくしかなかった。

 酔よって醜しゆう態たいを見せつけるはずが……どういうわけか、私の方が彼かれの優やさしさや頼たのもしさを見せつけられることとなってしまった。

『飲んだくれアラサー女はキツい大作戦』──大失敗。



 作戦その二。

『金かね遣づかいの荒あらいアラサー女はキツい大作戦』。


 これは……キツいわあ。

 ブランド物を買かい漁あさったり高いランチやディナーに行きまくって散財してるような女は、男にとってはきっと嫌いやなタイプだと思う。

 ていうか女の私からしても、そんな女はなんか鼻につく。

 まあこれが、狼森おいのもりさんみたいに自分で会社興おこしちゃうようなバリバリのキャリアウーマンなら、自分で稼かせいだ金をどれだけ豪ごう勢せいに使おうが自由なんだけど、私みたいなしがないサラリーガールが身みの丈たけに合わない金の使い方をしていれば、他人からしたらみっともない行こう為いとして映るだろう。

 私が虚きよ栄えい心の強い浪ろう費ひ家とわかれば、タッくんも失望するに違ちがいない。

 というわけで。

 私は金かね遣づかいの荒あらい女を演じるため、大して興味もないブランド物をネット通つう販はんで適当に選んで購こう入にゆうする──はずだったのだけれど。

 寸前のとこまで行って、凄すさまじい葛かつ藤とうが私を襲おそっていた。

「……う~~、あ~~……」

 リビングのソファにて、一人で呻うなり続ける。

 手にはスマホ。

 通つう販はんサイトの購こう入にゆう画面で、あと一回タップすれば購こう入にゆうが確定という状態で……タップできないまま三十分が経過していた。

「え~~、うわ~~……こ、これが二十万……? こんな、大して収納性もなさそうなバッグが……に、二十万……?」

 とりあえず誰だれもが知っているような有名高級ブランドのバッグを買ってみようかと思ったけれど、その額に目玉が飛び出るかと思った。

 高い。

 一番下のランクでも、かなり高い。

 いや、ありえないわよ。

 バッグに二十万円って。

 別に貯金を崩くずせば払はらえないわけでもないけれど……うちは決して裕ゆう福ふくなわけじゃない。

 美み羽うは高校生になったばかりで、これからまだまだお金はかかる。大学には絶対行かせたいし、できることなら奨しよう学がく金なしで通わせてあげたい。そのために今からきちんと貯金を始めようと思ってたタイミングなのに──

 ここで無む駄だな散財をしてどうする?

「……うぅ~、あ~~。や、やめよ……」

 懊おう悩のうの果てに、私は注文確定画面のキャンセルボタンを押おした。

『金かね遣づかいの荒あらいアラサー女はキツい大作戦』──自主断念。



 作戦その三。

『……これは本当にやりたくなかった大作戦』。


 この作戦は──背水の陣じんとも呼ぶべき作戦。

 続けざまに失敗してしまったことで……いよいよこの作戦を実行する他なくなってしまった。

 私にとって──身を切る覚かく悟ごで臨のぞむ作戦とも言えよう。

 これまでの作戦二つはある意味で演技過か剰じようというか……飲んだくれや浪ろう費ひ家といった、偽いつわりの私を演じる作戦だった。

 しかし──今回は違ちがう。

 作戦その三では、私は己おのれの全てを曝さらけ出だす。

 ありのままの私を、包つつみ隠かくさずオープンにすることとなる。

 失うものは計り知れない。

 それでも──やるしかない。

 タッくんに現実の私を見せつけて幻げん滅めつしてもらうには──

 覚かく悟ごを決めた私は、いろいろと準備を整えてから、タッくんをうちへと呼び出した。

「綾あや子こさん、なんですか、見せたいものって──」

 家に入ってきて、リビングのドアを開いたタッくんは、そのまま硬こう直ちよくする。目を丸くして、口をあんぐりと開く。


「煌きらめけ、孤こ高こうの銀弾だん! ラブカイザー・ソリティア!」


 私は──言った。

 そう、今の台詞せりふを言ったのは、他でもない私。

 リビングの中央で、羞しゆう恥ち心しんも尊厳もなにもかもを置き去りにして、腹の底から全力で声を上げた。

 アニメキャラの名乗りを、ポーズを決めながら全力で叫さけんだ。

 格好は──フリフリでヒラヒラしてキラキラした、女子児童向け作品らしい作中衣い装しよう。

 手には変身アイテム兼けん武器となっている、ゴテゴテしてカラフルな銃じゆうがある。

「あ、綾あや子こさん……」

「……ふ、ふふ……とうとう見てしまったわね、タッくん」

 呆あつ気けに取とられる彼かれに、私は乾かわいた声で告げる。

 いやまあ、見てしまったというか、全力で見せに行ったんだけど──それでも、言う。

「これが……ほ、本当の私よ」

 格好はコスプレ状態のままだけれど、もはや思いっきり素の態度である。

 アニメキャラになりきるエネルギーは、最初の一回で全て使い果たしてしまったのだ。

「今までずっと隠かくしていたけれど……私、テレビアニメの『ラブカイザー』シリーズが大好きなの。大好きすぎて……いい年こいて玩具おもちやとか衣い装しようとか買っちゃうタイプのオタクなの……。もう、三十も超こえてるのに……」

 様々な葛かつ藤とうや躊ちゆう躇ちよを押おし殺ころし、私はカミングアウトをした。

『ラブカイザー』。

 日曜日の朝にやっている、国民的女子児童向けアニメである。いわゆる変身魔ま法ほう少女モノで、変身グッズを手にした女の子が悪者と戦うのがメインストーリー。現在はシリーズ十四作目、野菜と侍をモチーフとした『ラブカイザー・ベジタブル』が放映中。

 私は……なんというか、この『ラブカイザー』シリーズにハマりまくっていた。

 毎週欠かさず録画して、最低でも三回ぐらいは見直している。

「……最初はね、美み羽うのためだったのよ。美み羽うを引き取ったばかりの頃ころ、どこにでもいる普ふ通つうの女の子と同じように『ラブカイザー』が好きだったから、私も一いつ緒しよに見始めたの。毎週二人で一いつ緒しよに見たわ……」

 十年前──

 美み羽うを引き取った後、少しでも二人で一いつ緒しよのことがしたい、共通の話題が欲ほしいと思い、彼かの女じよが好きだという『ラブカイザー』シリーズを見始めた。

 ちょうどその頃ころは、シリーズ四作目『ラブカイザー・ジョーカー』が始まったタイミングだった。

 そして──それが沼ぬまへの入り口だった。

「……結果として、私の方がドハマリしちゃったのよね」

 ──へえ、最近の女の子向けアニメはすごいのねえ。

 ──私の子供の頃ころとは全然違ちがうわ。ヌルヌル動いてる。

 ──……すごい。

 子供向けとは思えないぐらい、ストーリーが凝こってるし、深いテーマ性がある。

 ──……え? え? 噓うそ。まさか……こんなどんでん返しってあるの!? じゃあまさか……一話からのあれは全部伏ふく線せん!? す、すごすぎる! こんなの、円えん盤ばん全部買うしかないじゃない!

 ──わっ。す、すごい! 大人向けのグッズとかもあるんだ!

 とか。

 まあそんな感じで、美み羽うのために見始めた女児向けアニメだったはずなのに、気づけば美み羽う以上に私がハマってしまったのだ。

「美み羽うは中学生……いえ、小学生高学年ぐらいで、普ふ通つうに卒業しちゃったのよね……。でも私は……卒業できなかった。今じゃ私が一人で見てるわ。映画もこっそり毎年見に行ってるし……『プレミアムダンバイ』が出してる大人向けグッズとかも、ちょこちょこ買っちゃってるの……」

 自分の格好を見下ろす。

 黒を基調としたフリフリ衣い装しようと、ゴテゴテと装そう飾しよくのついた変身銃じゆう。

 どちらも『プレダン』で購こう入にゆうしたものだ。

『プレダン』──有名玩具おもちやメーカー『ダンバイ』がやってる、その大人向けショッピングサイト『プレミアムダンバイ』の略りやく称しよう。

 そこでは高額かつ高品質のアニメ&特とく撮さつグッズを多く取とり扱あつかっており、私は『プレダン』のヘビーユーザーだった。

 ブランドバッグには躊ちゆう躇ちよしまくりの私だったけれど、この手のグッズには割と財さい布ふの紐ひもが緩ゆるくなってしまう。

「……どう、タッくん? これが……本当の私なのよ? いい年こいて女児アニメにどっぷりハマってて、部屋でこっそりコスプレをしちゃうような女が……私なのよ?」

 私は言った。

 隠かくしていた自分を、思い切り曝さらけ出だした。

 恥はずかしさと虚むなしさで涙なみだが溢あふれそうだけれど……でも、これでいいの。

 こんなキツい女だと思えば、タッくんも私に幻げん滅めつしてくれるはず。

 三み十そ路じを越こえた女が、子供向けアニメに夢中だなんて──

「……それ」

 やがて。

 しばらく黙だまっていたタッくんが、口を開く。

 コスプレ姿の私を見つめながら、苦く笑しよう気味に。

「水鶏島くいな島じま灯ひ弓ゆみが変身する、『ラブカイザー・ソリティア』の衣い装しようですよね?」

「……え?」

「十年経たった今でも、すげえ人気ありますよね、水鶏島くいな島じまって。定期的にグッズも出てるみたいですし、あと去年の夏映画にもスペシャルゲストとしてサプライズ出演したみたいですし」

「そ、そうなの! 去年の夏映画にヒユミンが出たの! 事前情報が一いつ切さいないサプライズだったから、公開初日には映画館でどよめきが走ったのよ! 私もすっごく驚おどろいて思わず泣いちゃったもん! 声優さんも本人で──って………?」

 思わず話に乗ってしまったけれど、途と中ちゆうで我を取とり戻もどした。

 まじまじとタッくんの顔を見つめてしまう。

「な、なんで知ってるの? ヒユミンのこととか、この衣い装しようのこととか」

「なんでって、まあ、俺おれも毎週見てますから、『ラブカイザー』」

「え、ええっ!?」

 仰ぎよう天てんする私に、タッくんは続ける。

「もっと言うと……俺おれ、知ってましたよ。綾あや子こさんが『ラブカイザー』好きなこと」

「……ええーっ!?」

 知ってたの!?

 私の痛い趣しゆ味み、知ってたの!?

「ど、どど、どうして……?」

「美み羽うが普ふ通つうに愚ぐ痴ちってましたし。隠かくれてこそこそグッズ買って部屋でコスプレしてるとか、映画やイベントへの誘さそいがしつこいとか」

 み、美み羽う~~っ!

 なんで親の恥はずかしい部分をお隣となりさんにバラしちゃってるの!?

「まあ、俺おれも元から結構オタクで、アニメとか漫まん画がとか普ふ通つうに好きですし……それで綾あや子こさんが好きなアニメなら俺おれも見たいなと思って『ラブカイザー』シリーズも最初から見始めたら……なんか、普ふ通つうに面おも白しろくてファンになっちゃいました」

 頰ほおをかきながら、困ったように笑うタッくん。

 私は……衝しよう撃げきのあまり、放心状態となってしまう。

 タッくん、知ってたんだ。

 私が必死に隠かくしていた趣しゆ味みなんて、当然のように知っていた。

 それどころか──理解しようとしてくれた。

 軽けい蔑べつも偏へん見けんもなく、私が好きなものを好きになろうとしてくれた──

「面おも白しろいですよね、『ラブカイザー』。最初子供向けだと思ってどっかナメてた気持ちもあったんですけど、意外と深いテーマや、重いシリアスがあったりして……でも、それでいて最後はやっぱり子供向け作品としてまとまってるのがいいというか」

「そ、そう! そうなのっ! あくまで子供向け作品であることが大事なのよね! 玩具おもちやメーカーの都合とか教育委員会への忖そん度たくとか、そういう面めん倒どう臭くさいしがらみの中で、それでもギリギリを攻せめてくれるところがすっごくいいのよ!」

 我を忘れて熱くなる私。

 するとタッくんは、私が持っている銃じゆう型の玩具おもちやに目を向けた。

「これ……『ラブカイザー・ソリティア』の変身アイテムですよね。確か、『プレダン』限定の、すごく高いやつだった気が……」

「……う、うん。放送当時に発売する玩具おもちやじゃなくて……数年後に大きいお友達向けで発売したやつで……五万円ぐらいしちゃうやつ……」

「五万……」

「で、でもね、値段に見合うクオリティなのよ! 細部のディテールがすごいし、本当に作中のアイテムそのままって感じなの! それにほら、ここを押おすと、声優さんのボイスが鳴るのよ!」

 ──『私の切り札は──リバーシブルよ!』

「うわっ、すげえ! これ……あの、三十六話の名台詞ぜりふじゃないですか!」

「そう! あの三十六話の名台詞ぜりふなの! 他にも作中の名台詞ぜりふがたくさん収録されてるのよ! あと、こっち押おすと主題歌や挿そう入にゆう歌も流れるの!」

「なるほど、それなら五万円も……納なつ得とくですね」

「納なつ得とくよね!」

「綾あや子こさんは、やっぱり水鶏島くいな島じま灯ひ弓ゆみが一番好きなんですか?」

「そうねえ……。いろいろ変へん遷せんもあったりしたけど、なんだかんだ最後はヒユミン推おしよね。まず『ラブカイザー・ジョーカー』自体が傑けつ作さく中の傑けつ作さくだし。『ラブカイザー同士が最後の一人になるまで殺し合う』なんて設定、今の時代じゃ絶対無理だと思うわ。十年前でもプロデューサーがあちこちと戦ったみたいだし。ほぼ毎週誰だれかが死んでくような殺さつ伐ばつとした世界感で、水鶏島くいな島じま灯ひ弓ゆみが変身する『ラブカイザー・ソリティア』は、いわゆるサブカイザーポジションなんだけど……とにかく全てが格好いいのよ!」

「格好いいですよね。最初クールで一いつ匹ぴき狼おおかみな雰ふん囲い気き出してるんだけど、段々と仲間思いの熱い一面とか出てきて……そして、中ちゆう盤ばんの」

「そう、中ちゆう盤ばんの壮そう絶ぜつな闇やみ落ち! 思いっきり地じ獄ごくの底に突つき落おとされたのに、そこから懸けん命めいに足あ搔がいて光の世界に戻もどってくる姿がまた尊いのよ!」

「いやー、もう、本当に格好良くて尊いですよね。うわー、どうしよう、話してたら、また『ラブカイザー・ジョーカー』見直したくなってきたな」

「見ましょう! 私、ブルーレイの完全版ボックス持ってるから! すぐ貸してあげ……いえっ、私も一いつ緒しよに見るわ! うちで上映会しましょう!」

「い、いいんですか?」

「もちろん! タッくんと一いつ緒しよに見られるなんて、すっごく嬉うれしいもの! そうだ! 今年の夏映画も一いつ緒しよに見に行きましょう! これまではおばさんが一人で行くの結構恥はずかしかったんだけど……タッくんと一いつ緒しよなら心強いわ!」

「はいっ! ぜひ行きましょう!」

「約束ね、約束! 言げん質ち取ったからね!」



 その後も私わたし達たちは『ラブカイザー』トークに花を咲さかせた。二十歳はたちを超こえて社会人になってからドハマリしたアニメ……その趣しゆ味みについて誰だれかと語り合ったのは初めてのことで、楽しくて楽しくて仕方がなかった。

 絶対二人で夏映画を見に行きましょう、と熱い約束を交かわし、タッくんを見送った後で──私は、深い後こう悔かいに苛さいなまれた。

「……違ちがう。なんで? なんでこうなった?」

 リビングのソファにて、頭を抱かかえて深く深く落おち込こむ。

 なんで?

 なにがどうなったら、こうなる?

 嫌きらわれようとしてたはずなのに、なんで気がつけばデートの約束してるの?

 しかも私から率そつ先せんして誘さそった感じになっちゃってるんだけど。

「う、うう……タッくんが悪いのよぉ……だって、ラブカイザーが好きとか言うから……そんなこと言われたら、私だって嬉うれしくなっちゃうじゃない! 今までずっと隠かくしてた趣しゆ味みだったのに……」

 それなのに、まさか理解してもらえるなんて。

 ドン引きされると思っていた趣しゆ味みが、共通の趣しゆ味みだったなんて──

「美み羽うなんて、いっつもいっつもバカにしてくるだけだったのに……」

「そりゃバカにするでしょ」

 気がつけば。

 学校から帰ってきた美み羽うが、リビングに立っていた。

 もはやソファで落おち込こんでいる私には慣れたのか、突つっ込こむこともない。ただ呆あきれた目でこちらを見下ろしている。

「母親が女児アニメにハマって、毎年映画見に行ってグッズまで買ってるなんて」

「み、美み羽う……」

「まあ別に趣しゆ味みは人の自由だと思うけどさ。私のこと誘さそうのだけはやめて欲ほしいんだよね。興味ないものは興味ないから」

「だ、だって……しょうがないでしょ? 私が一人で『ラブカイザー』の映画やイベントに通ってたら……なんていうか、浮うくのよ! 頑がん張ばって『娘むすめのためにグッズもらいに来ただけですが、なにか?』みたいな顔してるけど、それにも限界があるのよ! 誰だれか一いつ緒しよに来てくれた方が心強いのっ!」

「じゃあ、これからはタク兄と行けばいいんじゃないの?」

「そ、それは……」

 言葉に詰つまり、なにも言えなくなってしまう。

 美み羽うは深く溜ため息いきを吐ついてから、

「上手うまくいってないみたいだね、タク兄に嫌きらわれる大作戦」

 と言った。

 私はなにも言えない。

 その通り。作戦は今のところ、全部大失敗。

 タッくんに私のみっともないところを見せて失望させるはずが、一向に上手うまくいかない。

 それどころか……どんどん距きよ離りが縮まっている気さえする。

 お互たがいの好感度がどんどん上がっている気がする。

「で、でもっ、この作戦はまだ始まったばかりよ! 私の欠点なんていくらでもあるんだから、これからコツコツと好感度を下げて──」

「あのさ」

 私の言葉を遮さえぎるように、美み羽うは言う。

 呆あきれを通とおり越こして、若じやつ干かんの怒いかりが滲にじむ声で。

「いつまで逃げてるつもりなの?」

「え……」

 私は呆あつ気けに取とられてしまう。

 言葉の意味が、わからなかった。

「ま、いいんだけどね、別に。ママがそういう態度なら、私にも考えがあるし」

 なにも言えない私を無視して、美み羽うは二階に上がっていってしまった。

第六章 本音と建前


    ♥


 その日はタッくんが家庭教師に来る日で、彼かれはいつも通りの時間に私の家を訪おとずれた。

 二人が二階で勉強している間、一階で洗い物や洗せん濯たくなどの家事を行っていると──狼森おいのもりさんから電話があった。

 仕事のちょっとした確かく認にんの電話で、要件自体はすぐに済んだ。

 けれども──

『はははっ。なんだ、私の知らないところでずいぶんと愉ゆ快かいなイベントが発生したようだね。まさか──お隣となりの大学生から告白されてしまうなんて』

 大層楽しそうに笑う狼森おいのもりさん。

 ああ、やっぱり言うんじゃなかったかなあ。

 仕事の確かく認にんが済んだ後、軽い相談のつもりでタッくんとのことを「私じゃなくて友達の話なんですけど~」と始めたら、一いつ瞬しゆんで噓うそがバレてしまい、あれよあれよという間に全ての情報を抜ぬき取とられてしまった。

 さすがは敏びん腕わん女社長というべきか。

 トーク力が半はん端ぱじゃない。

 ……まあ、私のガードが甘あまいってのも、大いに関係してそうだけど。

『左沢あてらざわ巧たくみくんか……そういえば、以前からちょくちょく話は聞いていたね。隣となりに住む男の子に娘むすめの家庭教師をやってもらっている、と。それどころか、その子と娘むすめが付き合ったら嬉うれしい、とさえ言っていたかな?』

「…………」

『しかし、その左沢あてらざわくんが思いを寄せていたのは……娘むすめじゃなくてママの方だったというわけか。くくっ。あははっ、こいつは傑けつ作さくだ』

「……笑いごとじゃないですよ」

『おっと失礼』

 突つっ込こむと、狼森おいのもりさんは一応の謝罪を口にした。

 しかし愉ゆ快かいそうな声は止まらない。

『けれどまあ、なんとも純愛じゃないか。その子は、十年もきみに片思いしてたんだろう?』

 そうらしい。

 純愛と言えば……純愛だ。

 ちょっと純すぎるぐらい。

『そこまで一いち途ずに想おもってもらえるなんて、実に羨うらやましい話だよ』

「羨うらやましいって……もうっ。からかわないでくださいよ、狼森おいのもりさん。私は真面目に相談しているんですから」

『うん? からかっているつもりはないが』

 不思議そうな声で言う狼森おいのもりさん。

『相談……ふむ。相談だったのか、これは。ただの自じ慢まん話かと思っていたけれど──さて。いったいなんの相談なんだい?』

「なんのって……だから、これから私は、どうすればいいかと……」

『付き合えばいいじゃないか』

 狼森おいのもりさんは言った。

 からかっている──口調ではない。

 ごく普ふ通つうの、当然の答えを述べるような口調だった。

『話を聞く限りじゃ、誠実で一いち途ずで、とてもいい男っぽいじゃないか。とりあえず付き合ってみればいい。それでダメなら、別れればいいだけの話だ』

「……そ、そんな簡単には」

『簡単な話だよ、男と女なんて。むしろきみが、難しく考えすぎているんじゃないのかい?』

「…………」

『どうも歌枕かつらぎくんは、相手との年ねん齢れい差が気になっているようだけれど……彼かれはもう二十歳はたちを超こえているんだろう? そんな相手を子こ供ども扱あつかいするのは、逆に失礼な話だと思うがね』

「それは、そうかもしれないですけど……でもやっぱり、そんな簡単には考えられません」

『ふむ?』

「今の私が、十も年下の男の子と付き合うなんて……常識的に考えて、無理なんですよ。上手うまくいくはずがない……」

『……ぷっ。あははっ。あははははっ!』

 狼森おいのもりさんは、笑った。

 堪こらえ切れんとばかりに、大きな声で。

「お、狼森おいのもりさん?」

『あはは。いやー、失敬失敬。つい笑ってしまったよ。まさかきみの口から「常識的に考えて」なんて言葉が出てくるとはね』

「…………」

『十年前──二十歳はたちそこそこで姉夫ふう婦ふの子供を引き取って育てる決断をしたのは、どこの誰だれだったかな?』

 狼森おいのもりさんは言う。

『就職は決まったばかりで貯金はゼロ。子供を育てた経験も皆かい無む……それでもきみは、美み羽うちゃんを引き取ると決めた。そんな「常識的に考え」たらおかしい決断をしてのけたのが、歌枕かつらぎ綾あや子こという女じゃなかったのかい?』

「…………」

 ふと思い出す。

 十年前のことを。

 葬そう式しきの場で、美み羽うを引き取ることを決めた私──あのときの私は、『常識』なんて考えていただろうか。

 いや、考えていなかった。

 そんな言葉が頭をよぎることもないぐらい、感情が体を突つき動うごかした。

『やれやれ。この十年できみもずいぶんと変わってしまったようだね』

 どこか嫌いやみっぽい声で、狼森おいのもりさんは続ける。

『あの頃ころのきみは──まだ若かったんだろうね。若いからこそ後先考えず、湧わき上あがる感情に身を委ねることができた。自分の生活を擲なげうってでも誰だれかのために尽つくそうと思えた。なぜなら──失うものがなかったから』

「失うもの……」

『失うものがない人間は、なんだってできる。なんにだって挑ちよう戦せんできる。でも人は生きていく上で、様々なものが人生に降り積もっていく。失ったら困るものが増えていく。お金だったり家族だったり友人だったり、あるいはプライドや自尊心だったり……そういったものが増えていくことを、「年を取る」というんだ』

「…………」

『人はね、年を取るほど転ぶことが怖こわくなるんだよ』

 狼森おいのもりさんは言った。

『歌枕かつらぎくんが姪めいっ子を育てる決断ができたのも、きみが「若かった」からなんだろうね。でも──今のきみは違ちがう。もうきみは、年を取ってしまった。十年という歳さい月げつの中で、失ったら困るものがたくさんできてしまった』

 十年前──

 美み羽うを引き取ることで揉もめていた親族達たちのことが、脳のう裏りに蘇よみがえってきた。

 正直な話をしてしまえば──私はあのとき、彼かれらを軽けい蔑べつした。

 自じ分ぶん達たちのことばかり考えていて、美み羽うのことをなにも考えてあげられない彼かれらに対し、失望や憤いきどおりに近い感情を覚えた。

 でも。

 今になって思い返すと──彼かれらも必死だっただけなのかもしれない。

 自じ分ぶん達たちの生活を守ろうと、家族との大切な生活を維い持じしようと、必死なだけだった。美み羽うのことを考えていないわけじゃなくて、親しん戚せきの子供よりも大切にしなければならない家族が──失ってはならないものが、彼かれらにはあったのだ。

 けど私には──なにもなかった。

 だから、湧わき上あがる感情のままに行動できた。

 それは優やさしさや愛情、あるいは正義感と呼べる感情だったのかもしれない。美談として語られるべき、尊い感情だったのかもしれない。

 でも──私がそんな感情を持ち、その感情のままに動くことができたのは。

 私に、失うものがなにもないからだった。

 私が、まだ若かったからだった──

『ヒーローの条件は孤こ独どく、なんてよく言われる言い回しだけどね。そりゃそうだよ。人は家族がいたらヒーローにはなれない。大衆よりも家族を優先するようじゃヒーロー失格だし、逆に家族を蔑ないがしろにするようでもヒーロー失格。どう転んだところで、家族を持った者はヒーローではいられないのさ』

「…………」

『着の身着のまま、誰だれに気き遣づかうこともなく自由に行動できた十年前とは、だいぶ勝手が違ちがうようだね、歌枕かつらぎくん。今のきみには──美み羽うちゃんという家族がいる。この十年で積み上げてきた家庭があり、日々の生活がある。地域やご近所との繫つながりだってあるだろうし、仕事にしても新人だった十年前とは立場や責任が全然違ちがう。そんな環かん境きようが、失ったら困る多くのものが──きみに「常識」という言葉を使わせるんだろう。「常識」は、大人が大好きな言葉の一つだから』

 狼森おいのもりさんは言う。

『ようこそ歌枕かつらぎくん。クッソつまんねえ大人の世界へ』

 それは、身に突つき刺ささるような痛つう烈れつな皮肉だった。



 電話が終わり、椅い子すに座すわったまましばらく放心したような気分でいると、リビングの戸が開いた。

「ママ。電話終わったの?」

「あ……うん。タッくんは?」

「もう帰ったよ。電話中だったから、挨あい拶さつせず帰るって」

 時計を見ると、もう夜の九時を回っていた。

 ついつい長電話をしてしまったらしい。

「ねえ、ママ」

 開いていたノートパソコンを閉じて片付けていると、美み羽うが私の正面に座すわった。

 まっすぐこちらを見み据すえて、真面目な口調で告げる。

「結局、どうするの、タク兄のこと」

「どうって……どうもしないわよ。何度も言ってるけど、私と彼かれが付き合うなんて、やっぱり無理なんだから……」

「そうじゃなくてさ」

 美み羽うは頭をかき、深く息を吐はき出だす。

 そして苛いら立だちや呆あきれが滲にじむ声で、こう続けた。

「ママはさ、タク兄に告白されてから──ずっと逃にげてばっかりだよね」

「え……」

「『常識的に考えて無理』とか『左沢あてらざわさん家ちに申し訳ない』とか、そういう世せ間けん体てい気にするようなことばっかり言ってさ。その上『みっともない自分を見せて向こうから嫌きらってもらおう』みたいな、変な作戦始めるし。逃にげてばっかりだよ」

「に、逃にげてなんか」

「逃にげてるよ」

 冷れい淡たんな視線が、私を見み据すえる。

 思わず目を逸そらしたくなるけれど──でも、目を背そむけることができない。静かな怒いかりを伴ともなう目が、私に逃とう避ひを許さない。

「常識とか世せ間けん体ていとか、それっぽい上うわっ面つらの言葉だけを振ふりかざして、ずっと逃にげてる。ママは──一回も自分の気持ちを言ってない」

「──っ」

 言われて、ハッとした。

 自覚があった、わけじゃない。

 でも確かに私は、無意識のうちに──逃にげるような行動ばかりしていた。

 一番最初に、告白をなかったことにしようとしたときから、ずっと同じことを繰くり返かえしているだけだった。

 常識という便利な言い訳を使って本音を隠かくし、相手と向き合うことを拒きよ絶ぜつし、挙げ句の果てに『私の嫌いやな部分を見せつけて幻げん滅めつしてもらおう』などと、向こうから去って行くことを望むような、卑ひ怯きような真ま似ねをしている。

 逃にげていると言われても、返す言葉がない。

 そうだ。

 私は、まだなにも言っていない。

 なんの答えも出していない。

 私は──逃にげてたんだ。

 タッくんの告白から、ずっとずっと、逃にげ続けていた──

「ママ。いい加減逃にげるのやめて、本当のこと教えてよ。本音で答えてよ」

 糾きゆう弾だんの眼まな差ざしで、美み羽うは私を睨にらむ。

「常識とか世せ間けん体ていとか、あとは……私のこととか。そういう面めん倒どうな建前を全部取とっ払ぱらって考えたとき──ママはタク兄のこと、一人の男としてどう思ってるの?」

「…………」

 言葉に詰つまってしまう。

 美み羽うの糾きゆう弾だんや狼森おいのもりさんからの皮肉が、頭の中をぐるぐる巡めぐって、思考をかき乱していくようだった。

 思考は乱れに乱れ──それでも私は、必死に考えた。

 考えなければならないと思った。

 逃にげずに──考える。

 タッくんの告白と、そして自分の心と、きちんと向き合う。

 そして──

「……好きよ」

 私は、言った。

「好きに決まってるじゃない。私だってずっと、タッくんのことが大好きだったわ。彼かれの誠実さや優やさしさはよく知っているし……見た目だって、結構タイプよ。タッくんと付き合える人は、幸せだと思う。あんな素す敵てきな男の子にまっすぐ好意を向けられて、とても嬉うれしく思う」

「…………」

 美み羽うは一いつ瞬しゆん、片かた眉まゆをぴくりと動かした。

 口を開きかけるけれど、

「でも」

 言葉を発するよりも早く、私が言葉を続けた。

「私はやっぱりタッくんのこと……一人の男として見ることはできないわ」

 結局のところ、それが答えであり、本音だった。

 偽いつわらざる、私の本音であった。

「タッくんのことは好き、大好き……でもこの気持ちは、なんていうか……母親が息子むすこを想おもうような好きなのよ。私にとってタッくんは、どうしたって恋れん愛あい対象にはならない」

 昔からずっと──十歳さいの頃ころからずっと、タッくんを見てきた。

 成長した今の姿に男らしさを感じることはあっても──異性として見ることはできない。彼かれをそういう対象として見てしまうことには、忌き避ひ感みたいな感情が常につきまとう。

「美み羽う、私はね……ずっとあなたとタッくんが結ばれればいいと思ってた。お似合いのカップルだと思ってた。もちろんそれは、私の親としての勝手な願望だったわけだけれど──でも、結局そういう風に思えていた時点で、私にとってのタッくんは、男じゃなくて息子むすこみたいな存在なのよ」

「…………」

「それにね、美み羽う……本音と建前って、そんな単純な話じゃないのよ」

 簡単な話だよ、と狼森おいのもりさんは言っていた。

 でも、私には無理だ。

 簡単になんて、どうしたって考えられない──

「美み羽うはさっき、言ったわよね。面めん倒どうな建前は全部取とっ払ぱらって本音を言えって──でもね、そんなの無理よ。本音と建前って、そんな綺き麗れいに分けられるものじゃないから」

 建前を全部取とっ払ぱらったら本音だけが残る──そんな単純な構造だったら、どれだけ簡単でどれだけ幸福だっただろうか。

 建前は──本音を包んで隠かくすだけのものではない。

 これが子供だったなら、

 もっともっと、簡単な話かもしれない。

 果実の実を覆おおう皮のように、簡単に建前を剝はがせてしまうのかもしれない。

 でも──大人になったらもう無理だ。

 果実がどんどん熟してしまい──皮と実が、本音と建前が、ドロドロに溶とけ合あってしまっている。

 本音を隠かくそうとする建前には、常に本音が滲にじんでしまうし。

 大事な大事な本音の中身が、建前と一体化していることだってある。

「私はね、美み羽う。もう……三十過ぎのおばさんなの。感情や勢いだけで恋れん愛あいなんてできない。どうしたって今の生活や、今後の生活のことを考えてしまう。剝むき出だしの好意と裸はだかで向き合ってられるほど、無防備じゃいられないの」

 どうしたって、リスクを考えてしまう。

 リスクばかりが目についてしまう。

 今この家で、この地域で、お隣となりに住む十歳さいも年下の少年と交際するリスク。

 もしも関係が明るみになれば、世間からどんな目で見られるかわからない。

 私だけならいい。

 でももし、美み羽うまで奇き異いの視線を向けられるようになったら──

「──っ」

 結局これは、狼森おいのもりさんの言う『クッソつまんねえ大人』の考えなのだろう。

 リスクとメリットを天てん秤びんにかけた時、リスクだけを考えてしまう。新しいなにかを摑つかむことより、今あるものを失うことを恐おそれてしまう。慎しん重ちようで臆おく病びようで保守的でコンサバな、転ぶことを怖こわがってばかりの大人の考え方。

 でも──それでいい。

 私はもう、人の親なのだから。

 子供のままでいていいはずがない。

 大人になる覚かく悟ごは、十年前に決めた。

「結局……タク兄とは付き合えないってことね」

 しばしの沈ちん黙もくの果てに、美み羽うは言った。

 呆あきれたような、諦あきらめたような声だった。

「……ええ。そうね」

「…………」

 美み羽うは目を閉じ、深く息を吐はき出だした。怒いかっているような悲しんでいるような、一言では説明できない複雑な感情が滲にじむ顔つきとなっていた。

 しかし。

 しばしの沈ちん黙もくの後に飛び出した言葉は、私の心臓を止めた。

「──だってさ、タク兄!」

 と。

 突とつ如じよ、美み羽うは叫さけんだ。

 廊ろう下かの方を向いて。

 数秒後、ゆっくりとリビングのドアが開く。

 そして現れたのは──

「タ、タッくん……!?」

 躊ちゆう躇ちよするような足取りでリビングに入ってきたのは、タッくんだった。申し訳なさそうに顔を伏ふせ、瞳ひとみには悲痛さが滲にじんでいる。

「そんなっ、どうして……? 帰ったはずじゃ……」

「……すみません」

「タク兄は悪くないよ。私が無理言ってお願いしたの」

 謝罪を遮さえぎるように、美み羽うは淡たん々たんと告げる。

「ママの本音聞き出すから、帰ったフリして聞いててって」

「……ど、どうしてそんなこと」

「だって──タク兄があまりにかわいそうだったから」

 それは、酷ひどく冷たい声だった。

「勇気振ふり絞しぼって告白したのに、長年の片思いをやっと伝えたっていうのに……ママは曖あい昧まいで中ちゆう途と半はん端ぱな対応してるだけなんだもん」

「それ、は……」

「どうにか誰だれも傷つかないように、上手うまいこと丸く場を収めようとしてたのかもしれないけど──それがママの優やさしさなのかもしれないけど……でもそれって、やっぱりズルいと思う」

「…………」

 私はなにも言えない。なにも言い返すことができない。『ズルい』。娘むすめの放ったその言葉が、心の奥おく底そこに深く突つき刺ささった気がした。

「綾あや子こさん……」

 やがて、タッくんが口を開く。

「俺おれ……その、本当にすみませんでした」

 最初に零こぼれ落ちたのは、深い謝罪だった。

「俺おれが告白なんかしたせいで……綾あや子こさんに面めん倒どうな思いさせちゃって……。美み羽うにも結果的に迷めい惑わくかけてるし……。今までの関係を、俺おれの身勝手な都合でぶっ壊こわすようなことしちゃって……本当に、ごめんなさい。でも、その……あ、ありがとうございます」

 次に零こぼれたのは、感謝だった。

「俺おれのこと、真しん剣けんに考えてくれて……ありがとうございます。盗ぬすみ聞ぎきだったけれど、綾あや子こさんの本音が聞けて……嬉うれしいです。望んでた答えじゃなかったけど、答えがもらえてよかったです。あはは」

 そこでタッくんは──笑った。

 乾かわいた、空々しい笑えみ。

 あまりにわかりやすい、作り笑い。

 見ているこっちに激痛が走るような、痛々しい笑えみだった。

「あはは……ま、まあ、最初から無理だってわかってましたけどね。完全にダメ元っていうか。俺おれみたいなガキが、綾あや子こさんみたいに立派な女性の相手に相応ふさわしいはずがないですから」

 明るい声で、不自然なぐらい明るい声で、タッくんは言う。

「男として見ることができないって言われても……返す言葉がないですよ。そりゃそうですよね。今までずっと、そういう風に接して来たんですから。綾あや子こさんからしたら、息子むすこに告白されたみたいなもんでしょ? そんなの、気持ち悪いに決まってる。本当……気持ち悪いですよね、俺おれ……。綾あや子こさんは俺おれが隣となりに住んでるから優やさしくしてくれただけなのに──子供だから優やさしくしてくれただけなのに、それを俺おれだけ一人、ずっと女として意識してて……ほんと、気持ち悪りぃ……」

 噓うそみたいに明るい声は、段々と震ふるえていく。

「……あ、あはは。もう全部忘れてください、綾あや子こさん。もう、この数日のことは全部なかったことにして……今まで通りに……今まで……」

 とうとう声は出なくなってしまう。

 タッくんは──泣いていた。

 目から零こぼれた涙なみだが、無理矢理作ったような笑えみの上を流れていく。

 それに気づいたのか、片手で顔を隠かくすようにすると、「すみません」と一言だけ残して、リビングから出て行ってしまった。

「ま、待ってっ! 待ったタッく──」

「ママ!」

 反射的に追いかけようとした私を、硬かたく冷たい声が制した。

「追いかけてどうするの?」

「ど、どうするって……」

 どうする?

 どうする──つもりだったのだろうか、私は?

 追いかけて、謝あやまって、慰なぐさめて……それで?

 深く傷ついた彼かれに寄より添そって、一いつ緒しよに泣いてあげたりして……それで?

 なにになるのだろう?

 それで慰なぐさめられるのは──他でもない私自身だ。

 こんなにも心を痛めてあげた、やるだけのことをやってあげた、という自己満足が生まれて、自分を少し正当化できるようになるだけ──

「それはズルいよ、ママ」

 美み羽うは言った。

 責めるように言った。

 私はなにも言えなかった。『ズルい』。つくづくそう思う。自分でも嫌いやになるぐらい、無意識にズルい行動ばかりしようとしてしまう。

 リビングの床ゆかに、崩くずれ落おちて膝ひざをつく。

 目からは涙なみだが零こぼれそうだったけど、必死に堪こらえた。

 被ひ害がい者ぶって涙なみだを流すことだけは、許されないと思ったから。

第七章 女と男


    ♥


 ──一人じゃないよ。

 ──綾あや子こママには、僕ぼくがいるよ。

 ──嫌いやなことや辛つらいことがあったら、僕ぼくが綾あや子こママを守るから。

 ──だから……だから、綾あや子こママ。もう……泣かないでよ。

 昔の夢を見た。

 大体、十年前ぐらいの夢。

 まだ小さかったタッくんと、一いつ緒しよにお風ふ呂ろに入ったときのこと──

「……僕ぼくがいるよ、か」

 ベッドの中で目を覚ました私は、夢の内容を反はん芻すうする。記き憶おくの奥おく底そこに眠ねむっていた過去を、ぼんやりと思い出す。

 ああ──

 そうだった。

 まだ小さくて、自分のことも『僕ぼく』と言っていたタッくんは、仕事と育児で手て一いつ杯ぱいになっていた私に、そんなこと言ってくれたんだった。

 こんな大事なことを、今の今まですっかり忘れていた。

「……嬉うれしかったなあ」

 本当に嬉うれしかった。

 救われたような気がした。

 報むくわれたような気がした。

 単なる気き遣づかいだとしても、あるいは子供特有の無責任な発言だとしても、十分すぎるぐらいに嬉うれしかった。

 十歳さいになったばかりの子供が、追おい詰つめられていた私の心を優やさしく温めてくれた。

 でも。

 どうやらタッくんにとっては、気き遣づかいでも気休めでもなく、そして無責任な発言でもなかったらしい。

 彼かれはあの日からずっと、あのときの言葉通りに生きていたのだろう。

 この十年、タッくんはいつもそばにいてくれた。

 私が困っていたときは、いつだって助けてくれた。

 美み羽うへの好意からの行動だと勘かん違ちがいしてしまっていたけれど──それらは全部、私への好意によるものだった。

 あまりにも純じゆん粋すいで無む垢くな、純愛の心。

 子供らしい穢けがれなき愛情を、彼かれは二十歳はたちになった今でも持ち続けてくれた。

 でも私は──そんな彼かれの気持ちを、受け止めることはできなかった。

 とっくの昔に大人になり、大人の世界で長く生きすぎてしまった私には、純じゆん真しん無む垢くな好意と真正面から向き合うことができなかった。

「……起きなきゃ」

 未いまだ寝ねぼけ気味の頭を引きずるようにして、私はベッドから降りた。

 ベッドから降りたら、また新しい一日が始まる。

 まだまだ人生は終わらない。

 まだまだ続いていく。

 人生は、大人になってからの方が長いのだから。



 タッくんを(間接的に)フッてしまってから、数日が経過していた。

 あの日から一度も、彼かれには会っていない。

 朝に美み羽うを迎むかえに来ることはなくなったし、家庭教師の予定も美み羽うを通じてキャンセルしてもらっていた。

 もちろんお隣となり同士、いつまでも顔を合わせずに過ごすことは不可能だろう。

 でも今は、どんな顔をして彼かれに会えばいいかわからない──

「ママ……もう、また寝ね坊ぼうしたの?」

 重い足取りで階段を降りていくと、リビングから顔を出した美み羽うがいた。すでに制服に着き替がえていて、いつでも学校に行けそうな様子。

「……おはよ」

「おはよ、じゃなくてさ。はあ……まあいいけど。もう朝ご飯できてるよ」

 リビングに入ると、テーブルにはすでに朝食が並んでいた。ご飯に味み噌そ汁しる、ハムエッグにウインナーに納なつ豆とうパック。実にオーソドックスなメニューだ。

 普ふ段だんはなにかと面めん倒どう臭くさがって家事を私に任せっぱなしの美み羽うだけれど、その気になれば一通りのことができる。

 この三日間は、毎朝美み羽うが朝食を作っていた。

「はーあ。ママがだらしないせいで、私、どんどん料理が上手になっちゃうんですけど? 今日なんか時間余ったから、自分でお弁当も作っちゃったよ」

「……そう。すごいわね」

 グルグルと納なつ豆とうをかき混ぜながら、これ見よがしに溜ため息いきを吐ついて言う美み羽うに、私はぼんやりと返した。

 ここ数日、夜は眠ねむれなくて朝は起きられないという、酷ひどい生活を送っていた。なにをしていてもタッくんの顔が脳のう裏りから離はなれず、思い出すたびに胸が締しめ付つけられるように痛む。

 彼かれの悲痛な顔が、涙なみだが、頭から消えてくれない──

「まったく……ママが落おち込こむのはお門かど違ちがいでしょ? 大人なんだから、もうちょっとしっかりしてよ」

「う、うるさいわね……」

「朝から辛しん気きくさい顔見せられるこっちの身にもなってよね」

「……美み羽う。あなた、なんでそんなにママに厳しいの?」

「だって私はタク兄の味方だもーん。タク兄の純愛を応おう援えんしたかったし、タク兄にパパになって欲しかったんだもーん」

 ふざけた口調で言った後、納なつ豆とうをご飯にかけながら、

「まあ、もう応おう援えんしてもしょうがないんだけどね」

 と、美み羽うは続ける。

 軽い調子で、とんでもない言葉を──

「タク兄、彼かの女じよできたらしいし」

「……え?」

 手に持ちかけた箸はしを、思わず落としてしまった。

 言葉の意味がわからず、思考が停止してしまう。

「え……え? い、今、なんて……」

「だから、彼かの女じよできたんだってさ」

「…………」

 やはり意味がわからない。

 言葉の意味を、脳が受け付けようとしない。

「……ええ? う、噓うそ……でしょ? だってタッくんは……」

「ママにフラれたから、別の女と付き合い出したんだよ」

 混乱する私とは対照的に、美み羽うはどうでもよさそうに続ける。

 食事の手を止めることもなく、淡たん々たんと──

「失しつ恋れんを癒いやすには新しい恋こいが一番だっていうしね。タク兄、高校時代からそこそこモテてたみたいだし……それで今は有名大学通ってる将来有望株なんだから、そりゃ周りがほっとかないよ」

「…………」

「これまではママ一筋だったから誰だれとも付き合ったりしなかったらしいけど、もうママに縛しばられる必要もないからね。これからは楽しい楽しい大学生生活の始まりってわけ。まあ、ある意味、タク兄はママにフラれて幸せだったかもね。子供の頃ころの夢からようやく覚めて、若くてかわいい女の子と付き合えるようになったんだからさ」

「…………」

「あっ。そういえば今日、早さつ速そくデートだって言ってたよ。今日は午後、大学の講義がないんだってさ。駅前をぶらぶらして映画見るらしいね。いいよねえ、大学生って。平日でも時間がたくさんあるんだもん」

「…………」

「ご馳ち走そう様さまでした。じゃ、いってきまーす」

 一人でちゃっちゃと朝食を食べ終え、美み羽うは学校へと向かう。

 私は、朝食に手を付けることもできないまま、ただ呆ぼう然ぜんとしていた。



 その日の午後──私は、バスを利用して駅へと向かった。

 まあ、たまたまね。

 たまたま駅の方に用事があっただけ。

 そして最上階に映画館がある駅近のビルに向かい、一階の喫きつ茶さ店てんへと入った。

 うん、これもたまたま。

 たまたま前からこの喫きつ茶さ店てんに来たかっただけ。店内は空いてたけど、わざわざビルの出入り口がよく見える席に座すわったのも、本当にただの偶ぐう然ぜん。なんの意図もない。

 スプリングコートを羽織り、大きなサングラスとマスクをつけて、正体を隠かくすようにしてるのも、全部たまたま。ええと、そう、ただ紫し外がい線せん対策で──

「……はあ」

 やめよう。もうやめよう。

 自分で自分に言い訳しても、虚むなしいだけだわ。

 結局……気になって来てしまった。

 美み羽うの話を聞いてから、気になって気になってしょうがなかった。

 タッくんにできた彼かの女じよが、どういう相手なのか──

 あ~、もう。

 なにやってるんだろう、私……。

 私がフった側なのに──私が傷つけた側なのに。

 こんなことをする資格は、私にはないはずなのに──

 ……いや、まあそもそも他人のデートを盗ぬすみ見みする資格なんて誰だれにもないとは思うんだけど。

 と。

 そんな風に悶もん々もんと考えていたところで──

「──っ!」

 来た。

 タッくんだ。本当に来たっ。

 ビルの出入り口から彼かれが入ってきた。私は慌あわてて、持ってきていた雑誌で顔を隠かくす。そして、サングラス越ごしにこっそりと様子を窺うかがう。

 彼かれは──一人ではなかった。

 隣となりには女の子がいる。

 華きや奢しやで小こ柄がらな、かわいらしい顔立ちの女の子。髪かみには緩ゆるくパーマがかかっていて、唇くちびるには明るい色のリップ。スカートはかなり短く、細くしなやかな美び脚きやくが露あらわになっていた。

 全体的に若さが溢あふれるようなファッションで、そして彼かの女じよは、天てん真しん爛らん漫まんな明るい笑え顔がおをタッくんへと向けていた。

 二人は、私の前を通り過ぎていく。

 仲良く並んで、とても楽しそうに。

 若者同士、お似合いのカップルに見えた。

「…………」

 ちょっと放心状態になってしまう。心が一気に冷えていくのを感じた。

 本当、だったんだ。

 美み羽うが私をからかって噓うそを吐ついた可能性もあると思っていたけれど、どうやら本当の話だったらしい。

 タッくんには、本当に彼かの女じよができていた。

 新しくできた彼かの女じよと、楽しくデートをしている──

「……っ」

 心は一いつ旦たん冷え切った後、急速に変な熱が発生する。

 なによ!

 なによ、あの女!

 かわいくて、オシャレで、足も細くて……な、なんかムカつく!

 タッくんもタッくんよ!

 あんな女にデレデレしちゃって!

 ていうか……私と全然タイプ違くない!? 彼かの女じよを作るにしたって……あんな若くて華きや奢しやでスレンダーで、私と対極みたいな女の子と付き合うことなくない!?

 やっぱり若くてかわいい子がいいんじゃない!

 本当は私みたいなおばさんより、同年代の若い子がよかったんでしょ!

 とか。

 身勝手な怒いかりが燃えさかるも──そんな怒いかりは本当に一いつ瞬しゆんのことで、即そく座ざに自己嫌けん悪おが心をまた冷たくした。

 ああ──

 なにに怒いかってるんだろう、私は?

 私には、こんな怒いかりを抱いだく資格なんてないというのに。

 心は信じられないぐらいゴチャゴチャしてしまって、自分でも自分がなにを考えているのかわからない。

 それでも私は──気づけば喫きつ茶さ店てんを飛び出し、二人の後をつけていた。



 最上階の映画館は、平日だからかあまり混こんでいなかった。

 人混みがなければ接近は厳しい。私はグッズ販はん売ばい店の陰かげに身を隠かくしながら、二人の様子を観察し続けた。

 映画のチケットを購こう入にゆうした後、二人は売店で飲み物を購こう入にゆうしていた。

 種類の違ちがうドリンクを買ったようで、それぞれの味を確かめるためにか、二人で軽く飲み回しをする──飲み回し!?

 え、えええ!?

 それって……間接キスじゃないの!?

 いや別に、中学生じゃないんだから間接キスぐらいで騒さわぐのはおかしいのかもしれないけれど……で、でも、付き合って三日じゃちょっと早くない!?

 仮に間接キスするにしても、もうちょっと動どう揺ようするのが普ふ通つうじゃない!?

 それをまるで、男友達とやるみたいに、自然に──

「……あっ」

 迂う闊かつ、だった。

 間接キスに動どう揺ようした私は、つい姿を隠かくすことも忘れて、思い切り身を乗り出してしまった。

 彼かの女じよさんの方と──目が合ってしまった。

 きょとんとした顔で私を見つめた後、タッくんにひそひそと耳打ちをする。

 すると彼かれは私の方を見て──そして、大きく目を見開いた。

 駆かけ足あしでこちらにやってくる。

 私は逃にげることすらできず、その場に硬こう直ちよくしてしまった。

「あの……綾あや子こさん、ですよね?」

「……ひ、人ひと違ちがいですよ?」

「…………」

「…………ご、ごめんなさい。私です」

 誤ご魔ま化かすことはできなかった。まあ、無理よね。変装って言ってもコート来てサングラスかけてるだけだし、近づかれたら普ふ通つうにバレるわよね。

 観念した私はサングラスを外す。

 クリアになった視界には、タッくんの驚おどろいた顔があった。

「なにやってるんですか、こんなところで……」

「え、えっと、その……た、たまには映画でも見ようと思って」

「……そんな格好で、ですか?」

「い、いいでしょ! 今日はちょっと紫し外がい線せんがすごかったのよ! そ、そんなことより、タッくんこそなにやってるの!?」

 動どう揺ようと焦しよう燥そうのあまり、思い切り話を逸そらしてしまう私だった。

「なにって……映画を見に来たんですけど」

「そ、それはわかってるけど……でも、ちょっとどうかと思うなあ。こういう学校が休みの日こそ、みんなと差をつけるチャンスなのに」

「……?」

「か、彼かの女じよができて浮うかれるのはわかるけど……タッくんはまだ学生なんだから、休みのときこそ勉学に励はげむべきなんじゃないの!?」

「彼かの女じよ……? え?」

「べ、別に私には関係ないんだけど! タッくんが誰だれと付き合おうと、私にはちっとも関係ないんだけど! で、でも……ただ、やっぱり、その……」

 自分でわかるぐらい支し離り滅めつ裂れつな話を繰くり返かえしてしまう。

 タッくんは困こん惑わくの表情を浮うかべていたが──そこへ。

 彼かの女じよさんが遅おくれて歩いてきた。

 私とタッくんの顔を交こう互ごに見比べて──言う。

「やっぱり噂うわさの綾あや子こさんだったみたいだね」

 瞬しゆん間かん──

 ただでさえ混乱気味だった私の頭は、さらに混乱する。

 彼かの女じよが告げた言葉に──ではない。

 その声に、声質に、大いに驚おどろいてしまった。

「さっきから妙みような視線を感じるなあとは思ってたんだけど……いざ振ふり返かえったら露ろ骨こつに怪あやしい女の人がこっちを見てるからさ。もしかしてと思ったら、案の定だ」

 露ろ骨こつに怪あやしい女の人と、なにげに酷ひどいことを言われた気もしたけれど、そんなことは全く気にならない。

 声。

 彼かの女じよの発する声は──低かった。

 女性の発する声とは思えない、低い男の声だった。

「はじめまして、綾あや子こさん。話はいつも巧たくみから聞いています」

 頭が真っ白になる私を無視して、彼かの女じよはにこやかな笑えみを向けてくる。

 いや。

 彼かの女じよ──ではない。

「僕ぼく、梨りん郷ごう聡さと也やって言います。巧たくみの友達で、同じ大学に通ってます」

 目の前に立つかわいらしい出いで立たちの少女は、男っぽい低い声で、自分のことを『僕ぼく』と言って、そして『さとや』という男っぽい名前を名乗った。

「え……あれ? お、男の子……?」

「はい。男ですけど」

 平然と頷うなずいた後、彼かれは自分の服を見下ろして「あっ」という顔をする。

「そっか。今日はこんな格好だったんだ。あはは。すっかり忘れちゃってたな。巧たくみといるから、大学にいる気分だった。ごめんなさい、勘かん違ちがいさせちゃいましたよね」

「…………」

「もしかして僕ぼくのこと、巧たくみの彼かの女じよだとか思っちゃいました?」

「……う、うん」

 彼かの女じよ──じゃなくて聡さと也やくんは冗じよう談だんめかした口調で問うてきたけれど、驚きよう愕がくの展開があまりに連続したせいで私の頭は全く機能せず、誤ご魔ま化かすことも忘れて普ふ通つうに頷うなずいてしまった。

「え。ほんとに彼かの女じよだと思ってたんですか?」

「あっ。ち、違ちがう違ちがうっ! そ、そうじゃなくて……」

 慌あわてて誤ご魔ま化かすも、時すでに遅おそし。

 聡さと也やくんは神しん妙みような顔つきで考かんがえ込こんでしまう。

「……巧たくみ。綾あや子こさんには、フラれたって言ってたよね?」

「あ、ああ」

「そう……巧たくみはフラれた。でもそんな綾あや子こさんが、今、『ザ・尾び行こうしてます』みたいな格好で僕ぼくらの後をつけていた。そして僕ぼくのことを、巧たくみの彼かの女じよだと誤解していた……」

 ぶつぶつと呟つぶやきながら考かんがえ込こんだ後、

「ふむ。これは……僕ぼくは、空気を読んでどこかに行ってた方がいい流れかな?」

 と、聡さと也やくんは言った。

「……そう、かもな」

「オッケー。じゃ、先に入って席についてるよ。終わったら来て。まあ別に、来ないなら来ないでもいいけど」

 納なつ得とくしたようにそう言うと、聡さと也やくんはタッくんからドリンクを受け取って去っていく。すね毛一つ生えていない美び脚きやくで、淑しとやかな足取りで颯さつ爽そうと歩いていく。

 残された私わたし達たちは、とりあえず人気のない通路の隅すみへと寄った。

「あの子……タッくんのお友達なの?」

「……そうですね。大学に入ってからできた友達で、なにかとツルむことが多い感じです」

「あんなにかわいいのに……男の子なんだ」

「あいつ、大学の外だと普ふ通つうに女装して歩くんですよね。あー、いや。まあ女装っていうと否定されるんですけど。本人的には『女装じゃなくて、ただ僕ぼくに似合いそうなかわいい服を選んで着てるだけ』ってことらしくて」

「へ、へえ……」

 なんていうか、今時ねえ……。

 おばさん、ちょっとついていけないかも。

 ともあれ。

 私が『彼かの女じよ』だと勘かん違ちがいしてしまった相手は、ただの友達だったらしい。

 距きよ離り感がやたら近かったのも──まるで男友達同士みたいに見えたのも、納なつ得とく。

 だって……実際にその通りなんだから。

「今日は、あいつから映画に誘さそってくれたんですよね。その……失しつ恋れんのことなんか忘れてパーっと遊ぼうって言われて」

「…………」

「でも綾あや子こさん、なんだって俺おれらの後なんてつけてたんですか? しかも、聡さと也やを俺おれの彼かの女じよだって勘かん違ちがいするなんて……?」

「それは、その……」

「もしかして──美み羽うになんか言われました?」

 言いい淀よどむ私に、タッくんは言った。

「ど、どうして?」

「……今日、聡さと也やと映画に行くこと、美み羽うには話してたんですけど……そしたら、場所とか時間とか、やたら詳くわしく聞いてきたんで。聡さと也やがああいう格好してることも、美み羽うは知ってましたから」

「じゃ、じゃあ私──美み羽うに騙だまされたってこと!?」

 仰ぎよう天てんする私に、「……おそらく」とタッくんは頷うなずいた。

 う、うぅ~~、美み羽うってば……な、なんでこんな噓うそを……!?

「つまり綾あや子こさんは……美み羽うにいろいろ吹ふき込こまれた結果、俺おれに新しく彼かの女じよができたと勘かん違ちがいして、それで気になって見に来たってことですか?」

「え、えっと」

 反応に困ってしまう。全くもってその通りなんだけど、認めることは憚はばかられる。

 だってそれじゃ、まるで。

 私がタッくんのこと、気になって気になって仕方がないみたい──

「なんか……ちょっとショックですね」

「ご、ごめんなさい! 尾び行こうなんて失礼な真ま似ねしちゃって……」

「あー、いや、そこじゃなくて」

 苦く笑しよう気味に言う。

「尾び行こうはどうでもいいです。ショックなのは……美み羽うに騙だまされたとは言え、俺おれが彼かの女じよを作ったって思われたことが、です」

「え……」

「そんな簡単に、ふっ切れるわけないじゃないですか。フラれたからって、新しい女になんかいけるはずないじゃないですか。俺おれ、十年間も、ずっと片思いしてたんですよ。本当は今だって──」

 段々と言葉に熱が籠こもり、身を乗り出しかけるも、慌あわてた様子で身を引く。

「……すみません。迷めい惑わく、ですよね。こんなこと言われても」

「………」

「あはは。未練がましくて気持ち悪いですよね。あの……だ、大だい丈じよう夫ぶです。すぐには無理だけど、頑がん張ばって──好きなの、やめるようにしますから」

 無理に作ったような笑えみを浮うかべながら、タッくんは言った。

 やめるようにする、と。

 私を好きなことを、私への想おもいを──

「また、お隣となりさんとしてよろしくお願いします。美み羽うの家庭教師の方も……綾あや子こさんさえ平気なら、続けさせて欲ほしいです」

 姿勢を正して、誠実な口調で言うタッくん。

 でもどうしてか、すごく距きよ離りを感じてしまった。

 一線を引かれたような──一いつ生しよう懸けん命めいに線を引こうとしているような、そんな他た人にん行ぎよう儀ぎさを感じざるを得ない。

「あと……今日の尾び行こうで『綾あや子こさんが嫉しつ妬とした』とか勘かん違ちがいしたりもしないから、安心してください」

「え……」

「わかってますよ。俺おれがフラれて投げやりになって適当な女にハマったんじゃないかって、心配してくれただけですよね? 責任を感じたから、様子を見に来ただけなんですよね?」

「…………」

「大だい丈じよう夫ぶです。勘かん違ちがいしたりしませんから」

 寂さびしげな笑えみを浮うかべ、まるで自分に言い聞かせるみたいにそう言った後、タッくんは「じゃあ、聡さと也やが待ってますから」と、私に背を向けて歩き出した。

 私から、離はなれていく。

 一線を引いて、距きよ離りを置こうとしている。

 それがわかった瞬しゆん間かん、胸が締しめ付つけられるように痛み、頭が真っ白になり──

「ま──待って」

 気づけば。

 私は、彼かれを呼び止めていた。

 上着の裾すそを摑つかみ、少々強ごう引いんに。

「……や、やめないで」

 驚おどろいた顔で振ふり返かえる彼かれに、私は言った。

 もはや思考は完全に停止している。でも口は勝手に動いてしまう。脳を経由しない言葉が、心の奥おく底そこから衝しよう動どう的に湧わき上あがってそのまま口から飛び出していくようだった。

「私を好きなの……やめないで」

 なにを。

 なにを言っているのだろう、私は。

 でも、止まらない。

 もう言葉を、止めることができない。

「嫉しつ妬と……なのよ。たぶん、嫉しつ妬と……だと思う」

 剝むき出だしのはずの言葉は、しかし曖あい昧まいな表現になってしまう。

 だって──しょうがない。

 今の私がなにを考えているのか、私にもわからない。

「……やだったの。タッくんに彼かの女じよができたって美み羽うに言われたとき、すごく驚おどろいて、ショックで、落おち込こんで、いてもたってもいられなくなって……こうして尾び行こうまでしちゃったの。たぶん……嫉しつ妬としたんだと思う。タッくんが誰だれかと付き合うことが、嫌いやで嫌いやでたまらなかったの」

「…………」

「おかしい、わよね。変、よね……。あんなにきっぱりと『付き合えない』って言ったはずなのに……。もう、自分でも自分の気持ちが、全然コントロールできなくて……」

 言葉がとめどなく溢あふれていく。言葉を覚えたばかりの子供みたいに、ただ思いつくままにしゃべってしまう。

「……この前、うちのリビングで美み羽うに言ったことが噓うそってわけじゃないの。私にとってタッくんは、隣となりに住む子供で、息子むすこみたいな存在で……だから男として見ることなんてできない」

「…………」

「できない──はずだったのに」

 私は言う。

「タッくんに告白されてから──好きだって言ってもらえてから、もうずっとタッくんのことで頭がいっぱいで……寝ねても覚めてもタッくんのことばっかり考えてて、頭の中が、ずっとゴチャゴチャしてて……」

 息子むすこみたいなもの。

 その表現に噓うそはない。

 噓うそはない──はずだったのに。

「たぶん私……ほんとはもう、タッくんのこと男として意識しちゃってるの」

 私は言った。

 引いていた一線を踏ふみ越こえる言葉を、言ってしまった。

 ずっと目を逸そらし続けた自分の内面と──正面から向き合った。

 ──綾あや子こさん。俺おれ、ずっと、あなたのことが好きでした。

 告白された日から──

 私の中でタッくんの存在が、信じられないぐらい大きくなっていっている。

 娘むすめの彼かれ氏しになって欲ほしいと願っていた少年から向けられた、あまりにまっすぐであまりに純じゆん粋すいな好意──その眩まぶしすぎる好意から、私は逃にげた。

 誤ご魔ま化かして有う耶や無む耶やにして、なかったことにしようとした。

 けれど──もう無理だ。

 これ以上誤ご魔ま化かし続けるのは、どうしたって無理──

「えと……だからね? 男としても意識してるんだけど、息子むすこみたいっていう気持ちにも噓うそはなくて……タッくんが他の女と一いつ緒しよにいると思ったらムカムカするんだけど、それが嫉しつ妬となのか、母親が息子むすこに過干かん渉しようするみたいな気持ちなのかは自分でもよくわからなくて……だから」

「……要するに」

 言葉と気持ちが渋じゆう滞たいしてしどろもどろになる私に、タッくんは言う。

 真しん剣けんな顔つきで、なにかを期待するような目をして。

「ちょっとは俺おれのこと、男として意識してくれてるってことですか?」

「……う、うん」

「でも、『息子むすこみたい』と思う気持ちがゼロにはならない、と」

「そ、そうみたい……」

「だから、俺おれとは付き合えない」

「……うん。ちょっと、なにもかもが急すぎて、まだまだ全然心の整理ができてなくて……」

「そのくせ、俺おれに彼かの女じよができるのは嫌いやだからやめて欲ほしい、と」

「……えっと」

「付き合う気はないけれど、俺おれには好きなのをやめるな、と。私のことを好きなままでいなさい、と」

「…………」

 あ、あれ?

 改めて考えてみると……私、メチャクチャなこと言ってない!?

 死ぬほど自分本位で、死ぬほど面めん倒どう臭くさいこと言ってない!?

「……ぷっ。ははっ。はははっ!」

 タッくんは吹ふき出だすように笑った。

 大きく口を開けて、声を出して笑う。

「ははっ。ふふっ……綾あや子こさん、いくらなんでも、酷ひどくないですか? わがままにもほどがありますよ」

「……うう」

 返す言葉もない。酷ひどい。酷ひどすぎる。もう三十を超こえたおばさんだというのに、恋こいに恋こいする中学生みたいな──いや、中学生でも言わないような面めん倒どう臭くさいことを言っている気がする……!

 激しい自己嫌けん悪おに陥おちいる私に、

「いいですよ」

 とタッくんは言った。

「え……」

「全部綾あや子こさんの言う通りにします。他に彼かの女じよを作ったりしませんし、好きなのも──やめません」

「え、え……い、いいの?」

 我ながらとんでもなく最低なことを言ってると思うんだけど。

「惚ほれた弱みってやつですかね。俺おれには従う以外の選せん択たく肢しないですから」

 それに、とタッくんは続ける。

 緩ゆるむ口元を、手で隠かくすようにしながら。

「変な話ですけど……今、嬉うれしいんですよ」

「う、嬉うれしい?」

 三み十そ路じを越こえた女が、極限に面めん倒どう臭くさいことを言い出したというのに、いったいなにがどう嬉うれしいというのか。

「綾あや子こさんのこと、まだ好きでいていいんだと思ったら、なんか……すげえ嬉うれしくて」

「……っ」

 すごい台詞せりふを言われた気がした。

 心を鷲わし摑づかみにされるような、ものすごい台詞せりふを。

 激しく動どう揺ようしてしまう私に──タッくんは少し距きよ離りを詰つめてくる。

「その……なんていうか、ちょっとは可能性あるって考えてて、いいんですよね? 脈ありってことで」

「う、うええ!? いや、その……ま、まあ、そうね。そうかも。ちょっとぐらいなら、あるかも。ほ、ほんとにちょっとだけどね!」

「わかりました」

 タッくんは笑う。

 さっきの寂さびしそうな作り笑え顔がおが噓うそのように、本当に嬉うれしそうに笑う。私はもう恥はずかしいやらむず痒がゆいやらでわけがわからなくなってしまう。

「えと、あの……脈ありって言っても、きゅ、急にどうこうって話じゃなくてね! もう少し時間をかけてじっくり考えたいっていうか……」

「わかってます。俺おれ、ちょっと先走りすぎましたもんね。もう少し、ゆっくり行きましょう」

 情けないことを口走ってしまう私に、しかしタッくんは嫌いやな顔一つせず、温かい笑え顔がおを見せてくれた。

「十年も待ってたんだから、少し待つぐらい平気ですよ」

「タッくん……」

「えっと、じゃあ……しばらくは現状維い持じってことで」

 少し照れたように言いつつ、タッくんは私に手を差し出す。

「また、よろしくお願いします」

「……わ、わかったわ。仲直りの握あく手しゆねっ」

 少しの緊きん張ちようを感じつつ、私は差し出された手に応じる。

 手のひらで感じる彼かれの手は──とても大きかった。

 大きくて、骨張ってて、小さい頃ころに握にぎった彼かれの手とはまるで違ちがう。

 男らしさを感じさせる手で、彼かれは私の手を強く、それでいて優やさしく包つつみ込こむように握にぎる。

「俺おれ、頑がん張ばりますから」

 タッくんは言う。

「綾あや子こさんが俺おれのこと好きになってくれるように、頑がん張ばります」

「……お、お手柔やわらかに」

 まっすぐで情熱的な告白を前に、私は俯うつむくことしかできなかった。

エピローグ


    ♥


 シングルマザーの朝は早い。

 眠ねむい目をこすって早起きして、高校に通う娘むすめのために、毎朝お弁当を作ってあげなければならない。

 まあ……最近はダメダメだったけれど。

 でも今日は、久しぶりにちゃんと起きることができた。

 ぐっすり眠ねむって、気持ちのいい朝を迎むかえた。

 完成した朝食をテーブルに並べているタイミングで、

「わーっ! ヤバいヤバい、完っ全に寝ね坊ぼうった!」

 ドタバタと騒そう々ぞうしい音を立てながら、娘むすめの美み羽うが二階から降りてくる。

『寝ね坊ぼうった』という動詞が娘むすめの造語なのか、それとも最近の若者言葉なのかは、やっぱり私にはわからない。

 わからない。

 本当に、わからないことだらけ。

 娘むすめの成長も、隣となりに住む男の子の気持ちも。

 そして──自分の本音も。

 大人になっても、人生はわからないことばっかり──

「まずいまずい……最近はママがダメダメだから私がちゃんと早く起きなきゃいけなかったのに──って、あれ? ママ……?」

「悪かったわね、ダメダメで」

 私を見つけてきょとんとした美み羽うに、私は言った。

「おはよう、美み羽う」

「お、おはよう」

「ほら。ご飯冷めちゃうから、早く食べなさい」

「……あはは。なーんだ、もういつものママに戻もどっちゃったんだ」

 苦く笑しよう気味に笑いつつ、美み羽うは卓たくにつく。

 私もコーヒーを淹いれてから、反対側に座すわった。

「もうちょっとぐらいダメダメモードでもよかったんだけどねえ。そしたら私も、家事スキルがもっともっとレベルアップしただろうし」

「別に普ふ段だんからあなたが家事をやったっていいのよ?」

「いやいや、それはまた別の話っていうか」

「まったく……」

「それにしてもさ──ママもほんと単純だよね」

 美み羽うはじっと私を見つめ、呆あきれたように言う。

「タク兄と仲直りできた途と端たん、急に元気になるんだから」

「う、うるさいわね……」

「ちゃんと感謝してよね。私の優やさしい噓うそのおかげなんだから」

「……ええ、もう、おかげさまで」

 笑え顔がおが引きつるのを感じつつ、私は言った。嫌いやみっぽく言ったつもりだったけれど、負まけ惜おしみにしかならなかったかもしれない。

「あーあ。でもほんと、我わが母親ながら情けないっていうか面めん倒どう臭くさいっていうかさ。あんだけ大おお騒さわぎしといて結局『まずはお友達から始めましょう』みたいなノリで結論を先送りにするなんて……。中学生じゃないんだからさ」

「……あーあー、うるさいうるさい」

 あんまり正論ばっかり言わないでよ、もう……。

 優ゆう柔じゆう不ふ断だんすぎて情けないのも、恋こいに恋こいする中学生みたいに面めん倒どう臭くさいこと言ってるのも、自分が一番わかってるんだから……。

 その後──朝食を食べ終わったぐらいのタイミングで。

 家のチャイムが鳴った。

 娘むすめと二人で玄げん関かんに向かうと──そこには、彼かれがいた。

 タッくん。

 左沢あてらざわ巧たくみくん。

 お隣となりに住む男の子──いや。

 もう、男の子じゃない。

 もう、男の子になんて見えない。

 一人の立派な──

「おはよ、タク兄」

「おはよう、美み羽う」

 まずは美み羽うが軽く挨あい拶さつして、タッくんも応じた。

 それから彼かれは、私の方を見る。

 少しだけ照れが滲にじむ顔で、でもまっすぐに私を見つめてくる。

 私も恥はずかしかったけれど──目を逸そらさずに見つめ返した。

 真正面から、彼かれと向き合った。

「おはようございます、綾あや子こさん」

「おはよう、タッくん」

 いつも通りの、今まで通りの挨あい拶さつ。

 でも──今までとはなにかが違ちがう気がした。

 それはもしかしたら、ただの気のせいかもしれない。

 あるいは、違ちがっていくのは──変わっていくのは、これからなのかもしれない。

 私わたし達たちの関係は、これから今までとどう変化していくのか──

「……なーに朝から見つめ合っちゃってるの?」

「「──っ!?」」

 つい見つめ合ってしまっていた私わたし達たちは、美み羽うの茶化すような声で我に返り、慌あわててお互たがいに顔を逸そらす。

「私、お邪じや魔まなようですから、先に行ってましょうか?」

「……からかうなよ。行くぞ」

「はいはーい。じゃあママ、行ってきます」

「行ってきます、綾あや子こさん」

「い、行ってらっしゃーい」

 玄げん関かんから出て行く二人を見送る。

 ドアが閉められた後──ホッと息を吐はいた。

 はあ。

 よかった。

 なんとか普ふ通つうにできた……と思う。

 昨日の今日だから、タッくんの顔を見るとやっぱりドキドキして頭がこんがらがりそうだったけれど、どうにかこうにか平静を装よそおうことができた。

 緊きん張ちようから解放された私がゆっくりとリビングに戻もどると──テーブルに置いておいたスマホに、ラインのメッセージが来ていた。

 相手は──今別れたばかりの相手。

「タ、タッくん……?」

 私は不思議に思いつつ、メッセージ画面を開く。

 そこには『おはようございます。綾あや子こさん、元気そうでよかったです。ホッとしました』という挨あい拶さつと気き遣づかいのメッセージがあり──しかし続く文章で、私は度ど肝ぎもを抜ぬかれた。


『綾あや子こさんは今週末、なにか予定はありますか?

 もしなにもないなら、

 二人でどこか出かけませんか?』


「……え、え、え~~~っ!?」

 困こん惑わくの叫さけびを上げながら、その場にへたり込こんでしまう。

 これは……デートのお誘さそいよね!?

 完全にそうよね!?

 なんかもう……全く好意を隠かくす気がないんですけど!? 牽けん制せい球きゆうも変化球もなしに直球すぎる攻こう撃げきを仕し掛かけてきたんですけど!?

 すっごいぐいぐい来る!

 アプローチが露ろ骨こつ!

 ──綾あや子こさんが俺おれのこと好きになってくれるように、頑がん張ばります。

 昨日の言葉が蘇よみがえる。

 いや、その……いくらなんでもいきなりすぎない? 頑がん張ばるにしても、もう少しのんびりでいいんじゃないの? 先走りすぎたからゆっくり行こう、って言ってなかったっけ……。

 私はもう、恥はずかしいやら困るやら……そしてちょっぴり嬉うれしいやらで、頭も心もどうにかなってしまいそうだった。

 歌枕かつらぎ綾あや子こ。

 三ピー歳さいのシングルマザー。

 とってもかわいい娘むすめがいるけれど、そんなかわいい娘むすめよりも私のことが好きだという物好きな男の子から、熱ねつ烈れつな求愛を受けてしまう。

 どうにかこうにかしばしの猶ゆう予よはもらえた……はずだったのに。

 もしかすると……私が彼かれに籠ろう絡らくされてメロメロになってしまうのは、もはや時間の問題なのかもしれない。

 あとがき



 恋れん愛あいって意外と大人になってからの方が難しいのではないかと思います。好すき嫌きらい以外にも仕事、年収、貯金、結けつ婚こん、互たがいの親、子供などなど、様々な要素や条件がどうしたって関係するようになる。感情オンリーで恋れん愛あいできてた学生時代とは、なんというかステージが違ちがう。告白だって学生なら面と向かって『好きです、付き合ってください』と言えばいいのでしょうが、大人になるとなんかそういうザ・青春みたいなノリが恥はずかしくなってしまう。失しつ恋れんにしても、学生なら数年で環かん境きようが変わって人間関係リセットも可能でしょうが、大人はそうも行かない。人は大人になるほど転ぶのが怖こわくなる。恋れん愛あいに臆おく病びようになり、二の足を踏ふむようになる。今作のメインヒロインは、とある事情から子持ちとなり、背せ伸のびしてでも母親に──『大人』にならざるを得なかった女性です。大人として生きてきた彼かの女じよが、予想外の角度から投げつけれれた剛ごう速球の片思いに、怖こわがって尻しり込ごみして言い訳して逃にげまくって、それでも最後にちょっとだけ向き合う、というお話でした。

 そんなこんなで望のぞみ公こう太たです。

 電でん撃げき文ぶん庫こでは初めまして。

 姉夫ふう婦ふの子供を引き取った未み婚こんのシングルマザーと、そんな女性に長年片思いを続けていた少年のお話。言うまでもなく僕ぼくの趣しゆ味み全開の作品です。

 隣となりに住んでるお母さんヒロインのラブコメを書きたかった……!

 ジャンル、というかシリーズとしての方針は──青年主人公と隣家のママ、一対一の純愛ラブコメで行くつもりです。ハーレムにはせず、ひたすら想おもい人に一いち途ずな主人公を描えがいていきたいと思います。ちなみにどうでもいい創作秘話ですが、登場人物の名字は全て東北の難読地名が由来です。本当にどうでもいい話でした。

 では以下謝辞。

 担当様。こんな突とつ拍ぴよう子しもない企き画かくを通していただき、ありがとうございました。完全にダメ元の企き画かくだったので、書いていいと言われたときは嬉うれしいより先に『正気か、電でん撃げき文ぶん庫こ……!?』と驚きよう愕がくしました。ぎうにう様、素す晴ばらしいイラストをありがとうございます。綾あや子こママがイメージそのままのかわいいお母さんで、本当に最高です。

 そしてこの本を手に取ってくださった読者の皆みな様さまに最大級の感謝を。

 それでは、縁えんがあったら二巻で会いましょう。


望のぞみ公こう太た

娘むすめじゃなくて私ママが好すきなの!?

望のぞみ 公こう太た

電撃文庫

2019年12月10日 発行

ver.002

©Kota Nozomi 2019

本電子書籍は下記にもとづいて制作しました

電撃文庫『娘じゃなくて私が好きなの!?』

2019年12月10日 初版発行

発行者 郡司 聡

発行 株式会社KADOKAWA

●お問い合わせ

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※サポートは日本国内のみとさせていただきます。

※Japanese text only

装丁者/荻窪裕司(META+MANIERA)



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